*きみとぼく『bar』*

 

 

 

走って、走って、目的の店にたどりついたときには肩で息をしていた。

 

深呼吸をしてからドアを開く。ぶ厚さのわりに、この店のドアは軽い。

 

半地下になっているこのバーは、ぼくらがしばしば待ち合わせに使う店だ。

 

しばしば?――ほんとうに、ときどき。

 

今日のように、きみが珍しく、ばかみたいに大事にしている”仕事仲間たち”の飲み会に参加しなかった夜。

 

めざしのあぶったものとお茶漬け、という質素な夕食を済ませ、風呂に入って、ネルのパジャマを着てふとんを被り、枕元のライトだけつけて、きみのラジオを聴いていた。数十分前のことだ。

 

「――最後の曲……なににしよう……そうだな、少し懐かしいナンバーで、××の……」

 

××、が、バンドなのか個人なのか、男なのか女なのかすらぼくはわからない。きみが持っているこの番組はコアな音楽ファン向けだそうで、だからぼくはどの曲にも懐かしさを感じたりはしない。

 

きみの声だけのために、ぼくはラジオをつけている。きみが言う、「おやすみ」を聴きたくて。

 

ばかみたいにロマンチストだ。

 

「それじゃあ、おやすみ」

 

待っていたせりふを聴き、ぼくはラジオを消すために手を伸ばす。このあと曲が流れるはずだけれど、聴いてもよくわからないから聴かない。ぼくはコアな音楽ファンではないから。

 

「……今夜、もういちど会いたい」

 

直前――曲がかかる直前であり、ぼくがラジオを消す直前――にきみがささやき、ぼくは一時停止してから、がばりと身体を起こす。

 

それは、ぼくらだけにわかる合図。

 

今夜、もういちど会いたい。

 

きざなきみが考えた、待ち合わせの言葉。

 

だから、ぼくは走ってしまう。

 

ネルのパジャマを脱いで、洗ったばかりであちこちにふわふわ跳ねる髪をどうにか落ち着けて、コートを羽織ってスニーカーを履いて、終電の一本前の電車に慌てて飛び乗って。

 

半地下になっているバーまで走ってしまう。

 

きみとぼくが、はじめて会ったバーまで。

 

バーと言っても、気安い店だ。ジャズなんかかかっていないし、ひげをはやしていて落ち着いた物腰の”マスター”なんていない。わけありみたいなカップルも、ものほしそうな独り身もいない。

 

ぼくが一番気に入っている点はメニューにコーヒーがあるところだ。

 

アルコールが不得意なぼくは普段バーなんて場所には馴染めないのだけれど、ここなら、コーヒーを飲みながらきみの横顔をみることができる。

 

きみは赤くて辛いソーセージを頼むだろう。一杯目はかならずビール。

 

そうぞうしい外の空気をまとって入ってきて、カウンタに座っている”不機嫌な顔”のぼくをみて、にっこり笑うだろう。

 

ぼくは言う。

 

明日も仕事なのに、と。或いは、メールでもしてくれればいいだろ、と。

 

そうやって押し殺さなければ、嬉しさで気が狂いそうになるから。

 

きみとの待ち合わせ。

 

ぼくは自分が、ばかだし、狂っているっていうことを、知っている。

 

きみが待ち合わせ場所に先についていたことなんていままで一度もなかったのに、それでも走ってしまうのは、ぼくをみつけるきみをみたいから。ぼくはきみに、いつだってみつけてほしい。

 

きみは揚げたてのポテトフライを美味しそうに頬張るだろう。夜中に油ものなんて食べられないと言うぼくに、無理やりに食べさせようとするだろう。

 

ぼくは結局口を開けてしまうだろう。カウンタの下で、きみの手のひらが太腿を優しく撫でるから。

 

咀嚼して飲み込めば、きみが「いい子だ」と笑うと知っているから。

 

ぼくはどうしても、半地下になっているバーまで走ってしまう。

 

きみとぼくが、はじめてキスをしたバーまで。

 

 

 

*fin*

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

阿賀直己 Twitter

↓↓↓↓↓↓