*きみとぼく『I want』*

 

 


はじめて会ったとき、ぼくはきみが、胸ポケットのついたシャツを着ていたことをよく覚えている。

 

白だったのか黒だったのか赤だったのか、或いはストライプや水玉模様だったのか、それはちっとも思いだせないけれど、ポケットがついていたことだけは覚えている(忘れられない、と言ったほうがたぶん正しい)。

 

店は広かったけれど空調が壊れたようにむし暑かった。なにしろ人が多かったのだ。

 

アルコールのにおいとあちこちで響く笑い声、誰かが動くたび軋む木張りの床の音――めいめい料理を取る形式の、立食スタイルだった。惨めに乾いたレタスのフリル。大皿の端の、乱れたしみのようなグレイビーソース――、その場に存在しているものすべてに、ぼくは心の底からうんざりしていた。ぼく自身を含めて。

 

「こんばんは」

 

声をかけてきたのはもちろんきみのほうだ。ぼくは怪訝な顔をしただろう。ちゃんと答えなかったかもしれない。

それでもきみはいっこうに気にせずに、

 

「一人なの?」

 

と言った。

 

首を傾げたので、長めにしていた前髪がはらりと揺れた。すきまから、好奇心の塊みたいなつるりとした瞳が覗いていた。

 

きみはぼくにものを訊ねるとき、わざとからかうような言い方をする(だって、ぼくはそのときどこからどう見ても一人ぼっちだったのだから)。〝余裕ぶる〟のが好きなのは、昔からかわらない。

 

「正直つまんないよね、この会」

 

隣に並び、声を潜めもせずきみが言った。肩がわずかに触れたけれど、きみがなにも言わなかったので、ぼくもそれについてはなにも言わなかった。

 

ぼくはこのとき、自分がどういう受け答えをしていたのか、或いは答えていなかったのか、ぼんやりとした記憶すらない。

 

きみは節の目立つ細長い指にいくつも指輪をはめていて、その指に包まれたグラスには、やはり細長い銀色のマドラーがささっていた。

 

芳しい反応を見せなかった(だろうと思われる)のに、きみはぼくの隣に立って話を続けた。

 

喋ることを生業にしているなんてまだ知らなかったから、きみの声がやけに通るのが不思議だった。いつの間にか――たぶん一瞬で――人々の笑い声や床の軋む音に煩わしさを感じなくなっていた。

 

ときどききみの手元に視線を落とした。

 

汗をかいたグラスがきみの手の内側を濡らしているのだろうと想像すると、背骨のあたりがこそばゆくなった。

 

「でない?」

 

きみが言った。ぼくの反応が鈍かったからか、「抜けださない? 二人で」と、きみは白々しいくらい優しい声で言いなおした。愚鈍な子供に言い聞かせるみたいに。

 

ぼくは自分が、首を縦に振ったのか横に振ったのか、やっぱり覚えていない。

 

だけど気付いたら外にいた。

 

車のヘッドライトがぼくときみを犯罪者みたいに照らしては通り過ぎていった。店の中と大差ない、風一つ吹かないむし暑い夜。

 

――ほんとうは――と、ぼくは思った。半歩後ろからきみの後頭部やうなじを見ながら。ほんとうは外にでるつもりじゃなかった。

 

信じてもらえないかもしれないけれど、ぼくは得体の知れないきみを疑わしく思っていたし、少しこわいなとも思っていた。

 

だから外にでるつもりじゃなかった。

 

振り向いたきみは、ぼくの戸惑いに気付かないふりをして、夜に似合わない明るい笑顔で「じゃじゃーん」と言った。

 

声を合図に胸ポケットからでてきたのは、銀色の細長いマドラーだった。さっきまで、グラスの中で大人しく光っていたもの。誰の目にも留まることのない備品として、あの店にあったもの。

 

「盗るつもりじゃなかった」

 

悪びれないようすできみは言った。ぼくが戸惑いながらも、「店のものなのに」とか「どろぼうじゃないか」とか言ったのだろう。

 

「信じてもらえないかもしれないけどさ。盗るつもりじゃなかった。ただあなたにプレゼントしたくなったんだ」

 

人さし指と親指で細長いそれの端を摘まみ、ぶらぶらと揺らしながらきょとんとした顔をしている。

 

「欲しそうに見えたから」

 

ちっとも説得力のない言い訳をする子供みたいだった。

 

「……信じてもらえないかもしれないけど」

 

ぼくは言った。もうほとんど泣きだしそうだった。

 

きみが持ってきたマドラー。きみが持ってきてしまったぼく。

 

「ほんとうは、それがとても欲しかったんだ」

 

目元を覆いながらため息をつくみたいに言ったぼくを見て、きみは笑った。

 

 


*fin*

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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