*はじまりのテーブル3*

 

 

 

小学生のときだったと思う。担任教師が、やけに真面目な顔で言った。

 

「お父さんやお母さんに叱られて、叩かれたことのある子はいるかい?」

 

そのせりふや緊張した声色が場違いでなかったということは、あれはホームルームという名の説教の時間か、はたまた”道徳”の授業だったのか。

 

「先生は思うんだ。暴力はいけない。それがたとえ、お父さんやお母さんであったとしても、だ。叩かれて育った子は、いつか自分も同じことをしてしまうかもしれない」

 

教室はしんとしていた。先生の話を真面目に聞いていたのかもしれないし、退屈していたのかもしれない。俺の場合は後者だった。反抗的な生徒ではなかったが、勤勉でもなかった。どちらかというと成績も悪かったしね。
生徒にそんな話をするくらいだから、担任教師は子供を叱るときも手を出したりものを叩いて威嚇したりはしなかった。ただ静かに声を低くするとき、俺には彼がなにかを堪えようとしているようにも見えた。
大人になってからふと、「先生は自分に言い聞かせていたのかもしれないな」なんて思ったりもした。いつか自分も同じことを――……、あの言い方は、ちょっと呪いめいていたなあなんて、考え過ぎだろうか。
俺はと言うと、男手一つ――途中からは男手二つ?――で育てられたわけだから、もちろん、殴られるわ蹴られるわ。
それはでも、今で言う虐待なんて物騒なものではない。
もちろん「愛情の証」なんて思うほどめでたくイカレてはいないが、なんて言うか、とりあえずそうするしかなかったのだろう。父は、そういう人間だったのだ。

 

「あーあー……。可愛い顔なのにひどいことするもんだ」

 

父に殴られてぱんぱんに腫れた頬に氷を当ててくれたのは、いつも犀子さんだった。そのときはまだ男の格好をしていたが、今考えてみると物腰がちょっと女性っぽかった気もする。

 

「お父さん、酔ってたんだ。今日はちょっと飲みすぎたみたいでさ。……お店がね、忙しいわりになかなかお金にならなくてね」

 

それは俺を殴る理由にはならないでしょうが。――と、小学生も高学年になれば思わないでもなかったが黙って頷いた。犀子さんのほうがよほど泣きそうな顔をしていたし、店で儲ける金で俺の生活は成り立っているからだ。
犀子さんが仕事を辞めて本格的に店を手伝ってくれるようになるまで、そんなふうに結構殴られた。時代が時代なら、児童相談所の人が訪ねて来てもいいくらいよ。時代に感謝しなさいよお父さん。

 

「朝ごはん作っておくからね。変な時間に起こしちゃってごめんね、もう少し寝なさい。学校遅刻しないようにちゃんと起きて行くんだよ」

 

「はい」

 

いつもすみません。ありがとうございます。と俺が言うと、犀子さんはぐっと眉間に皺を寄せて、今にも溢れそうな涙をどうにか引っ込める努力をした。犀子さんは男の格好をしていたとき、わりと地味で淡々としている印象の人だった。けれど、泣き出しそうになるときにぎょろっと大きく見開かれた瞳に、ふくふくと溜まっていく涙がとても綺麗で、ああこの人はほんとうにいい人なのだろうなと子供心に思った。それを零すまいとしているところも含めて、思った。

 

「ねえ、へーちゃん。お父さんのこと、恨んでる?」

 

ふたたび身体を布団に横たえた俺に犀子さんが訊いた。
この質問はたびたび繰り返された。「恨んでる?」のときもあれば「嫌い?」のときも「恐い?」のときもあった。まるで俺が「はい」と答えたら、傷つくのは犀子さんなのではと思わせるくらいに神妙に訊ねた。
俺の答えは毎回変わらなかった。

 

「ううん」

 

本心だった。父の行為が単純に悪と結びつくものではないとわかっていた。
明け方に起きて台所に行くと、コンロの上の鍋にみそ汁が出来ていた。具は豆腐と油揚げだ。犀子さんの切る豆腐は妙に小さくて手の中に納まってしまうサイコロみたいで、俺はいつも「もっと大きく切ればいいのに」と思っていた。
飲んで深夜に帰ってきた父は昼前には仕込みのためにまた店に戻らなければならないので、朝食を取る習慣がなかった。
だから食べるのはほとんど俺しかいなかったのに、みそ汁はいつも鍋になみなみと作られていた。
まずその日の朝にはそのまま食べて、夜にはざく切りにした菜っ葉を入れたり、次の朝にはたまごを落としたりして、そのばかみたいに大量のみそ汁を必死で食べた。
時折、頬の内側が切れていて、染みることがあった。
そのときだけは少し泣いた。
傷は、治りかけのときが一番痛いのだ。

 

 

 

とは言えそんなことで、みそ汁を嫌いになったりするもんですか。嫌いどころか、「飽きた」と思ったこともない。
特に朝、ゆうべのアルコールがわずかに残って重いお腹に、すとんと落ちるみそ汁の温かな清潔さ。みそ汁に限らず、眠りから目覚めて一番にお腹に入れる食べ物は、古いものだったり悪い油を使っていたりしてはいけないと俺は思う。もし作り置きのものだとしても、もう一度火を通したり味を調えたりしてやれば、それは清潔な力になる。
力説したって誰も聞く人はいないので、頭の中で思っているだけだけれど。

 

「二宮さん、きゅうり美味いです。こういう漬物も自分で作るんですか?凄いなあ」

 

箸で摘まんだきゅうりを口に入れ、ぱりん、と小気味よい音を立てて咀嚼しながら星が言う。眠気のせいもあってどこかに行きかけていた気持ちを引き戻し、

 

「即席漬けだよ。塩振って置いておくだけだから」

 

と答えた。

 

「ふうん。凄いなあ」

 

わかっているのかわかっていないのか、――たぶんこの言い方はわかっていないのだろうが――星は口と同じリズムで頭を上下に動かしている。日の当たるところで仕事をしているとは思えない真白な腕をひょいっと伸ばし、テーブルの中央にある皿からおにぎりを取った。まったく面白いくらいよく食べる。

 

「おにぎりも美味しい。表面に塩がついてるだけなのになんでこんなに美味しいんだろう」

 

星の食べ方の不思議なところは、早食いに見えないという点だ。動く頬や嚥下するときの喉元を見ているとじっくり味わっているように感じられるし、こうして「これが美味しい」「あれが美味しい」と頼んでもいないのに感想を述べてくれるのだが、「喋ってないで食べなさい」と言う必要もなく、作った料理は端から綺麗になくなってゆく。
彼と同じ年齢だった頃、こんなにたくさん食べられただろうか。と、考えてみるけれど、たった五年前されど五年前で、二十三歳の自分が頭に浮かんでこない。さまざまなアルバイトを転々としながら、結構楽しくやっていた時期のはずなのだが。

 

「さあね。ま、塩分ちゃんと取っておきなよ。外は暑いだろ」

 

数分前に作ったものがたった一人の体内に納まっていくようすを、頬杖をついてぼんやりと見守っていた。眠ったのが四時前だったのでまだ三時間ほどしか寝ていない。もう一眠りしてから朝ごはんを食べようと思うけれど、米もきゅうりの即席漬けもみそ汁も、赤い髪のモンスターに食べ尽くされてしまいそうだ。
小さなあくびをしてから瞼を閉じると、

 

「わざわざすみません。朝めし、作ってもらって」

 

と赤い髪のモンスターが言った。モンスターらしからぬ小さな声だ。
瞼を閉じていても外の世界が明るいとわかるのはどうしてだろう。残像と言うやつだろうか。ちらちらと、光の中に赤色も雑ざる。
見た目にはどうも不良青年にしか見えないが実は勤労青年の星は、日雇いのアルバイトから月給制のアルバイトになった。つい三日前のことだ。
――仕事を見つけてきました――と、星は真面目な顔で言った。俺は仕事から帰ってきたばかりで、珍しくちょっと疲れていた。苦手なタイプの客が最後までだらだらと長居をしていたのだ。

 

――それで? いつから働くの?――

 

よっこいしょ、と言いながら靴を脱いだら、玄関先で仁王立ちになって俺を待ち構えていたらしい星は少し気勢をそがれたようだった。

 

――あ、明日からです。この前日雇いのバイトで行った現場の人が、別の現場世話してくれて、――

 

――ああ。そう。よかったね、それは。何時に出るの?朝は――

 

すたすたと追い抜かして行く俺に一瞬遅れを取った星が、ハッとしたように慌ててついてくる。まるで鶏の親子だ。

 

――し、七時半くらいかな…あの、俺、ここに、――

 

――七時半ね、はい。じゃあもう寝なさい。ソファでね――

 

少し前から星の寝床はリビングのソファということになっている。人から譲り受けた安いソファは、はやくも星の身体のかたちにこっぽりと沈み込んでいるようだ。丸まって眠っている星は警戒心をわずかに解いた野良猫みたいで、気の抜けた寝顔を見ていると二十三歳という彼の年齢をちょっと疑ってしまう。
星は、「それって、」とか「じゃあここにいても」とか、もごもごと口を動かしていたが俺にはほとんど聞こえなかった。単純な人間なので、空腹と眠気にめっぽう弱いのだ。
このときは、「これに寒さが加わったら遭難だ」と思うくらいにそのどちらも度合いが激しかった。
正直に言えばどちらでも、いや、どうでもいいのだ。
飲食店を自分で始めてみて気付いたのは、自分にとって”人が代わる代わるやってくる賑やかな空間”は、一人きりで過ごしていたうちの中とさほど大差がないということだった。自分の意思とは関係ないところで人が喋り、笑い、ものを食べる。サーモグラフィの画像で見たら赤い部分が多いだろうなというだけで、自分が一人だということにはなんら変わりはないのだ。
これを知っているのと知らないのとでは、生きていきやすさが全然違ってくる。
でももちろん、誰かと同居生活を送った経験はないし、星がゲイで、それは別に構わないけれどどうやら俺に好意を寄せているらしいから、受け入れられないという意思表示の意味も含めてはやく出て行きなさいと言うのが妥当なのだろうが、珍しく人から発せられる波動に当てられたものだからなにもかもが面倒だった。眠い!それが一番。
本人の希望と面倒くさがりの俺の性格がそういうふうにかっちりはまって、星は身体中の傷が治った今も俺のうちにいる。
七時半に仕事に出て行く勤労青年のために七時前に起きて朝ごはんの支度をするのはいささか骨が折れる作業ではあるが、

 

「いえいえ。朝ごはんは大事だからね」

 

という自分のポリシーをひたすら守っているのだ。
瞼を開くと星がちょうど「ごちそうさまでした」と手を合わせているところだった。
お腹の調子に合わせて選べるように、と思って大小さまざまな大きさに握ったおにぎりは、一つ残らずなくなっていた。俺の記憶が間違っていなければ、三合分の米を全部握ったのだけれど。
はてさて。

 

 

 

不特定多数の人と接する仕事だから、ある程度フラットな精神状態を保つことはとても重要。料理が好きだという以外に、そういうところも自分に向いている職業だと思う。
二宮平、って名前だけで、なんだかフラットな感じがするでしょう。その名の通りだもの。
さて、そんな俺にも苦手な人はもちろんいる。顔にも態度にも出さないけれど、

 

1,突然大きな声を出したり走り回ったりする子供(しかしこれは店には来ないので大丈夫)
2,不幸になるために二人でいるような不倫のカップル(不倫自体に偏見は持っていないつもりだが、店に入ってきたときから出て行くまで、どちらかが涙目、或いは泣いているというのは光景として単純にうんざりする)
3,その他

 

の、三パターンである。
今目の前に座っている彼女は、子供でもなければ不倫カップルの片割れでもないので、3に分類される。星が働き口を見つけてきたと言ったあの夜、俺を疲れさせたのが彼女だ。

 

「あたしねえ、仕事の関係でテレビ局とかよく出入りするんだけど、女優の××っているでしょう?あの、朝の連続ドラマに出てた子」

 

「ええ」

 

カウンタの中でじゃがいもの皮を剥きながら、時折顔を上げて答えた。
アスランは音楽をかけない店だが、こういうときのためにオーディオは置いておいてもいいのかもしれないな、と思う。彼女のように声のボリュームを調節出来ない人が、客がまばらなときにやってきた場合だ。さっきまでテーブル席に座っていた女性の二人組は、明らかに彼女の声と態度に参って早めに席を立ったようだった。いつの間にか客は彼女一人になっている。

 

「あの子って清純派で売ってるけど、ほんとうは男とっかえひっかえなのよ。しかも相手をちゃんと選んでて――ホラ、共演してた若手俳優の〇〇くんと噂が出たじゃない?あれはガセなの。あの子が選ぶのは俳優じゃなくてプロデューサーとか脚本家。それで仕事取ってるんだから」

 

「へえ」

 

女優の××も若手俳優の〇〇も名前を聞いたことがなかったので耳に残らなかった。
彼女は、こってりと化粧をしているけれどそれを落とせばたぶん若い。俺よりも少し下かもしれない、というくらい。ふんわりと流れる今風の茶色い髪も、それなりに値段がするであろう洋服もすべてさまになっているし、ほっそりしたうりざね顔の美人だ。
話題が下品であることには多少辟易するけれど、こういう”業界裏話”みたいなものが好きな人は結構いるので慣れている。
ではなぜ苦手なのだろう、と考えてみたところ、彼女のものの食べ方があまり好きではないのだ。食べ方と言うか、食べ物の扱い方が。

 

「お兄さん、格好いいしモテるでしょ?あ、ねえもしよかったら、今度企画出してあげようか?イケメンオーナーのいる隠れ家的バーみたいな感じで、取り扱ってくれる番組があるかも」

 

しっかりと焼き目をつけたトルティーヤ――スペインのオムレツだ――は、細いフォークの先であちこちを刺されて瀕死の戦士並みにばらばらと崩れかかっている。
一旦客に出してしまえば、それをどう食べるかはその人の自由だ。熱々のうちに!とか、これは塩で食べてください!とか言うつもりはない。
トルティーヤは冷めても美味しい料理だし……とは思うが、ばらばらの卵焼きみたいになったそれや、食べもしないのになぜか半分に切られた付け合わせのオリーブを見るとやっぱり気持ちが悄気てしまう。だってオリーブなんて、ぱくりっと丸ごと口に放り込んでしまえばそれが一番美味しい方法のはずなのに。

 

「ありがたいお話なんですが、そういうのはお断りしているんです。一人でやってる小さな店ですからお客様があまり多くなると対応できませんし」

 

「でも繁盛すればバイトも雇えるし、お店広げることもできるじゃない」

 

根本的に感覚の違う相手と言葉を交わすとき、頭の中でイメージするのは足元の線だ。線と言うか、縄みたいなもの。自分と相手の間には始まりも終りも見えない細い縄が横たわっていて、それを挟んで平行にずっと話をしている感じ。並んで歩いていても線を越えて交わることは決してない。
肩を竦めて微笑むと、彼女はにやりと笑った。オレンジ色の唇が天ぷらを食べたあとみたいにてかてかしているが、天ぷらではなくグロスだろう。

 

「そういう態度が、モテる男って感じ!ミステリアス!ねえねえ、彼女とかいないの?立候補したーい」

 

陽気に酔っぱらっているふうでも、ほんとうに楽しそうな人とどこか憐れな感じのする人がはっきりとわかれているのは不思議なことだ。
空のグラスを下げると、「赤ワインもう一杯」と言われた。
こういうとき、「もうやめておいたほうがいいですよ」というようなせりふを俺は言わない。やめるかどうかも、客の自由だ。
自由だけれど、酔っぱらって眠られたり、家に帰れないと言われたら困るなあ……と考えていたらドアが開いた。時刻は深夜三時を回ったところで、普段ならもう店仕舞いをしている時間だった。
入店を断ろうと開くドアを見ていたが、そこに立っていたのは客ではなかった。透明のビニール傘を手に、ひょっこりと顔を出したのは星だった。

 

「どうしたの」

 

と言った声が図らずも”助かった”という安堵に満ちていたので、まだまだ心を平らかにする修業が足りないらしい。
星はちらりとカウンタ席に座る彼女に視線をやったあと、妙に子供っぽい口調で「雨だよ」と言った。

 

「外、凄い雨だよ。一時間以上前から降ってて、今やっとましになってきたから……」

 

だから迎えに来た、とか、だから帰ろうよ、という口ごもり方だった。スニーカーを穿いた足元がずっくり重たげに濡れている。

 

「えっ なになにー?お兄さんの知り合い?弟?可愛い!若いね!」

 

「友達です」努めてにこやかに俺は言った。可愛いと言われた星は、ちっとも可愛くないぶすくれた顔でドアのそばに突っ立っている。「お客様、本日はもう閉店です。彼の話だと、雨がましになったようなので今タクシーを捕まえたほうがいいですよ」

 

「えーっ 飲み足りないなあ……。あ、ねえ、お兄さんのうちに連れて行ってよ!この間、近くだって言ってたじゃん」

 

「げえ」

と、星が小さな声で漏らした。一瞬自分の口から出たのかと思った。すっかり酔っている彼女は気付いていないらしく、「ねえねえー」と俺の腕を揺すぶっている。
背中を擦ったり氷水を飲ませたりしながら宥めすかし、どうにか店の外に連れ出して、タクシーに押し込んだときにはもう四時になろうとしていた。
ああ疲れた……と思い店に戻ると、かれこれ一時間近く傘を持ったまま仏頂面で突っ立っている星がいた。

 

「なんだあれ!」

 

突然怒鳴られてびっくりした。声のボリュームは時間帯によって調節するべきだと思う。

 

「なんだ、って。お客さんだよ」

 

「いつもああいうこと言われるの?うちに連れて行ってとか」

 

「酔っ払いの冗談だ」

 

トルティーヤの残骸や表面の乾いてしまったカルパッチョを生ごみの入ったビニール袋にざっと捨てた。
つかつかと勢いよくカウンタ席に向かってきた星は彼女が飲み散らかしたあとを一瞥して眉を顰め、紙のコースターをすいっと捲ると「やっぱりな」と吐き捨てた。興奮しているらしい星は、サーモグラフィで見てみたらそこだけ赤くなりそうだ。サーモグラフィなしでも十分に赤い髪を眺めた。

 

「なにが”やっぱり”?」

 

「さっきの女、コースターの裏に携帯の番号書いてる!やり方が古くせえの!ストーカーになるんじゃないの?いつかうちで待ち伏せとかされるかもよ」

 

カッカと熱を発散させている星は騒々しかったけれど、俺はなんとなくほっとしていた。彼女が帰ってくれたからだろうと思ったが、星の次の一言でそうではないことに気付いた。

 

「それに、二宮さんの料理、美味しいのにあんなにぐちゃぐちゃにして勿体ないよ」

 

それは先ほどとは打って変わってぽつりと心細げな呟きだった。
肌に合わないセーターを着たときみたいにちくちくしていた心が、綿で撫でられるような感じがした。声のトーンにもボリュームにも、星の本質的な優しさが染み込んでいた。それが、俺の心にもじんわり染み込んだ。
フラットを心掛けているので、顔には出なかっただろうけど。

 

「色んな人がいるさ。今日は少し疲れていたんだろう。彼女、精神的にもハードな仕事みたいだから」

 

カウンタ越しに空のグラスや小皿を渡してくれる星は、お手伝いを覚えたばかりの子供みたいだ。
にっこり笑いながら受け取ってそう言うと、口元をまごつかせて、

 

「そんなふうに優しいから、付け込まれるんですよ……」

 

と星が言う。電話番号の書かれたコースターをどうするべきか、摘み上げて持て余していた。

 

「付け込まれる。なるほどね。たとえばきみみたいなのが転がり込んでくるとかね」

 

「……」

 

じとっと睨みつけてくる瞳に、いつも通り笑っている自分が映っていてほっとした。疲れてはいるけれど、それほど参ってはいないようだ。

 

「怒るなよ」

 

「怒ってません」

 

「じゃあ泣くなよ」

 

「泣いてない」

 

思わずぷっと吹き出すと、「いつまでもそうやって笑っていればいーんすよ」と言われた。「いいんですよ」ではなく、「いーんすよ」だ。その軽い響きを、なんとなくとてもいいなと思う。
傘をカウンタに乱暴に立てかけて、「先に帰ります」と踵を返す後ろ姿に、

 

「勤労青年。朝ごはんを食べてから帰りなよ」

 

と声をかけた。声をかければきちんと立ち止まるあたり、星は素直で真面目だ。
たとえ振り向いた顔がぶすくれていて、潰れた魚――ふぐみたいなのを連想させたとしてもね。

 

「家に帰ったらたぶん寝てしまう。寝たらきみの朝ごはんまでに起きることはほぼ不可能だと思うからね」

 

「無理に作らなくていいですよ。別に、コンビニとかで適当に買って帰るし」

 

「それはよくないなあ」

 

コンビニが信じられないわけではなく、若者のチョイスが信じられないのだ。たとえば塩と一言に言っても……と、語り出すと長いので、語るより先に料理をしよう。
出汁を冷蔵庫から取り出し、鍋に適量入れて火にかける。煮干しの水だしはそれこそ水につけておくだけなので簡単にできて便利だ。
上質の煮干しは炒るだけでも十分美味しくこうばしいつまみになるので、見つけたときは大量に買う。
豆腐に包丁を入れたところで、星がカウンタ席に座る気配を感じた。
目線をちらりと上げると、小さく痩せた、でも血色のいい顔がそこにあった。星はアジア人らしい一重瞼だが、重たげな印象がないのは黒目が大きいからだろう。見上げてくるときころんと丸くなるその瞳は、猫のようでも犬のようでもあるけれど、いずれにせよ「なにか食べるかい」と俺に言わせる変な力がある。ひもじそうというのじゃないよ。動物に本来備わっている生きていくための力が、そこに現れているような気がするのだ。
油抜きをした油揚げを千切りにして、じゃぶじゃぶ洗った水菜もそれに合わせた長さでざっくり切ってゆく。
だし汁が温まったところで味噌を溶き入れ、煮詰まりすぎないよう火をわずかに小さくしておいた。先ず油揚げを、あとから水菜と豆腐を入れる。
炊き立てのお米がないところが少し残念だが、常温のものにぽっちりと醤油を落とし、鰹節を入れて握った。
いつもならこのままオーブンで焼き目をつけるけれど、

 

「腹減ってきた」

 

と若者が言うので、フライパンにバタを落とした。両面を焼いていきながら、鍋はだから少量の醤油を入れる。
ぱちん、と油が小さく跳ねて、醤油とバタの香りが空間を満ちる。
俺は料理を愛しているな、と、突然に思う。料理はそれこそ、抑制されたフラットな心が求められるものじゃないかなと思い、それが愛おしさに繋がるのだ。
美しいものとそうでないものと、本物と偽物と、見分けることがどんどん困難になっていく中で、あらゆる信仰よりもこれは尊い。
――と、きみに言ってもわかんないでしょうから、とにかくどうぞ召し上がれ、だ。

 

「焼きおにぎりって俺冷凍のしか食べたことない!」

 

「たくさん食べな。それで、家に帰ったら少し寝なさい。ちゃんと目覚ましかけて、寝坊しないように仕事に行くんだよ」

 

椀に注いだみそ汁と、こんがり焼き目のついたおにぎりを並べてカウンタに置くと、星は意外にも「はい」と素直に頷いた。子供扱いをするとムッとすることが多いのに。

 

「いただきます」

 

「はいどうぞ」

 

と言いながら、自分の椀にもみそ汁を少しだけ入れた。濃い味付けではないのにこっくりとしているそれは、温かな光を放ったまま胃に落ちてゆく。
ふと、酔っぱらった彼女はきちんと家に帰っただろうか、と思った。
そこには誰かいるのだろうか。朝ごはんは食べるだろうか。
ねえ、ほんとうは清純じゃない清純派女優のことなんか忘れて、お酒を飲むのも少し控えて、ダイエットも(しているならば)一旦横に置いておいて、きみもなにか食べたほうがいい。
そういうふうに言ってあげられる人間だったらよかったな、と俺は思う。そういう人間でないから、思う。

 

「二宮さん」

 

「うん?」

 

瞬く間に空になった椀を手のひらで転がしながら星が俺を見上げていた。「おかわりする?」と訊ねようと口を開いたら、

 

「二宮さん、好きです」

 

と、「二宮さん、きゅうり美味いです」と同じ口調で言われた。力の宿った真っ直ぐな瞳が、こわいくらいに清んでいる。
ほんとうは驚いたくせに、ふふふ、と笑ったのは、俺がそういう人間だからだ。

 

「おかわりする?」

 

と言ったら、星はやはり素直に、

 

「はい」

 

と答えた。

 

 

 

 

 


*To be……*

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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