*はじまりのテーブル2*

 

 

 

朝起きて一番驚くことは、視界が赤く染まっていることだ。
いや、バイオレンスな話ではない。目の前に星の後頭部が迫っているというだけのことなのだが、朝から見るにはきつい色だしあんまりにも鮮やかに染まっているものだから毎朝見るたびに驚いてしまう。
という話を犀子さんにしたら、「あらっ いいわねえ若い子と同じベッドなんて。なんだかいい香りがしそうだわ。それでへーちゃん、もう先っぽくらいは入れちゃったの?」と言って笑われた。ちょっとキツいジョークだと思うけれど、犀子さんを知っている人は慣れっこなのでまるで聞こえていないみたいに反応しない。俺の店にやってくる人はほとんど犀子さんを知っているから、つまり俺以外ほとんど誰も反応しない。

 

「あのですねえ。何度も言いますけど、俺はゲイでもバイでもないです。星だって違うと思いますよ」

 

カウンタの中で牛すじ肉のかたまりを煮込みにしながら言った。ローリエの香りがふうわりと微かに漂う。
犀子さんは大きな口で勢いよく焼きうどんをすすり、油で光らせた唇を動かしながら顔を顰めた。「あらっ」という彼女のお決まりのせりふ――の、不機嫌バージョン――が今にも聞こえてきそうだなと思う。焼きうどんは俺のオリジナルで、えびとパクチー、玉ねぎとパプリカとにらが入ったベトナム風のものだ。犀子さんが真っ赤な爪でえびのしっぽを口から取り出すさまはいつ見ても結構迫力がある。
『アスラン』は、カウンタが六席と二人掛けのテーブル席が三つという小さな飲食店だ。開店したのは俺が二十五のときで、つい先日三周年を迎えた。
いちおう俺の肩書はオーナーということになるんだけど、一人きりの店なので”オーナー風”を吹かせる相手は今のところいない。
自分で言うのもなんだけど、駅近くの飲み屋街からは外れたところにひっそりとあるわりにはアスランは繁盛店だ。
でもそれは俺の手柄ではない。「お料理以外はてんでだめんず」な俺のために、不動産関係の知人、飲食店の経営経験者、店の備品を中古で安く譲ってくれる友人と、自らの人脈を駆使してあれこれ奔走してくれた犀子さんのおかげだ。
犀子さんの友人やその人たちの友人といった具合に口コミで評判が広まっていき、ありがたいことに客が途絶えることはほぼない。一人だと回せないと思うときもあるくらいだ。
回転率のいい店ではないので利益もそんなに出ないけれど、綺麗な飲み方をする人たちばかりで助かっている。
基本的に半分くらいの客が男だか女だかよくわからないというところも、気に入っている。

 

「へーちゃんってバイじゃないの?なんだかそんな気がしたんだけど」

 

犀子さんの隣でビールを飲んでいたミチルさんがきょとんと目を丸くして言う。ミチルさんは犀子さんの店で一番の古株で、いわば片腕のような人だ。背が高く節々が骨ばっていてちょっとゴツいけれどしぐさは今時の女子大生なんかに比べるとよほど女性らしい。
トレードマークである艶やかなワンレンの黒髪は、プライベートな食事の時には耳の後ろで無造作にまとめられている。

 

「ミチルさん、事実無根です」

 

俺が声を低くして言うと、ミチルさんはゴツめの肩をひょいっと竦めた。隣で犀子さんがけらけら笑う。二人とも出勤前なのでほぼすっぴんに近い状態で、なんだか歳の離れた少年同士のようにも見える。
そんな気がしたってなんだよ、と思いながらも笑ってしまうのは、ミチルさんが俺をからかおうと思って言っているわけではないからだ。
彼女は、――彼女たちはと言うべきか――ほんとうに人の話を聞いていない。
彼女らの店にやってくる客の中には家族にも友人にも言えない悩みを真剣に打ち明けたりする人が結構いる。それに対して犀子さんたちはとても真摯に真剣に答える。相談した相手が引いてしまうくらい泣いたり怒ったりするときもあるほどだ。
だが、数時間後にはすっかり忘れてしまっている……ということも同じくらいある。聞いていないというか、覚えていないというか。
それが生きていくコツなのだと犀子さんは言った。
あんまり色んなことを真剣に聞いてため込んでいたら、涙の洪水で溺れ死んだり怒りのマグマで焼け死んだりしちゃうから、だそうだ。
生まれてきた性別を取っ払っちゃうってそういうことなのかな、と勝手に思っている。
いずれにせよ俺は、犀子さんや犀子さんのお店で働いている人がとても好きだ。

 

「でもあの子可愛いわよね、星ちゃん。あたしもうちょっと若かったらアプローチしてたのになあ。うちの店に来ないかしら」

 

「ちょっと無理じゃない?星ちゃんはオカマになれそうにないわ。こう、柔軟性が足りないのよ。カッチカチよ」

 

ペーパーナプキンで口元を拭いながら犀子さんが答えた。氷なしの水をグラスに注いでカウンタに置くと、「ありがとう」とにっこり笑う。
星は、つい一週間ほど前に殴られてぼろぼろになっていたところを犀子さんに拾われた青年だ。
拾ったのは犀子さんだが、彼女のうちには籍こそ入れていないが夫同然の彼氏がいて、若い男の子を連れて帰るなんてことは出来ない。ミチルさんも一緒に暮らしている若い彼氏がいるし、店の誰かに頼むよりは色んな意味で安心だという理由で白羽の矢が立ったのが俺だ。
歳は二十三歳。髪を真っ赤に染めていて、色白で、猫みたいにつり上がった生意気そうな目をしている。
俺が星について知っていることはそれくらいだ。
なぜ彼が殴られたのかも誰にやられたのかも知らないが、本人も犀子さんも言わないのであえて訊く必要もないだろう。明け方に店を閉めて帰宅していたら、ヤンキー上がりみたいな血気盛んな若いチンピラにわけもなく睨まれる街なのだ。殴るのにも殴られるのにも、理由らしい理由なんかないのかもしれない。

 

「だけど、あの子ゲイでしょ?だって、」

 

ミチルさんがいかにも嬉しそうに話し出したところで「すみませーん。ビールおかわりー」と違う客から声がかかった。
空になったグラスを片手にカウンタに戻ると、少年みたいなオカマ二人組が「えっほんとー」「ほんとよー!」と肩を寄せ合って笑っている。微笑ましいとおぞましいの中間くらいの光景だね。
どうしたんですか? と、聞かなくても話し出すだろうと思っていたら案の定、

 

「あのねえへーちゃん!」

 

と犀子さんがおばさんみたいに手首をクネクネさせる。おばさんみたいっていうか、おばさんなんだけど。

 

「なんですか」

 

「ミチルちゃんがね、星ちゃんに、”へーちゃんとの生活はどう?結構色男だしいいでしょ?もうやっちゃった?”って言ってみたんだって!そしたらね」

 

「若者に妙なこと言わないでくださいよ」

 

呆れてため息が自然に出たが、もちろんそんなこと気にする二人ではない。

 

「冗談のつもりだったのよお。そしたらね、星ちゃん妙に真面目な顔して、”二宮さんはノンケの人でしょ。格好いいし、優しいし、彼女とか絶対いると思うから”って言ったんだって!ねえ、これって、へーちゃんに気があるってことじゃない?」

 

「リップサービスじゃないですか。ミチルさんがキャーキャー喜びそうなネタじゃないですか」

 

今度はわざとらしく、ため息を「はーっ」という声にしたら「あら可愛くない」とミチルさんが鼻に皺を寄せる。可愛いなんて歳でもないので、「可愛くなくて結構です」と答えた。
はっきり言って星の個人的な部分に興味はない。
こういうことは初めてではないのだ。今までにも犀子さんが”ワケありの子”と言って連れてきた子を一二週間泊めてやったこともあるし、店で意気投合したノリで泊っていく奴もいた。歳どころか名前すら聞かなかったときもあった。いちいち興味なんて持っていたら頭が容量オーバーでパンクしてしまう。
星だって怪我が治れば出て行くだろう。子供じゃないんだから。
牛すじ煮込みの灰汁を取りながら、キャーキャー言うおばさん二人にばれないように小さく鼻から息を吐いた。

 

 

 

わりと遅くまで客が入ったので、店を閉めたのは深夜二時だった。
出来上がったばかりの煮込みと細々した菜をぶら下げて帰ると、リビングの電気がついていた。テレビの音も微かに聞こえる。
覗き込む気配を感じたのか、ソファにもたれていた赤い髪の頭が動いた。

 

「――あ、お、おかえりなさい」

 

「まだ起きてたの?」

 

立ち上がって瞳を落ち着きなく動かす星に言った。非難がましい声にはならなかったと思うが、少し呆れたようには響いたかもしれない。
ソファに視線をやると、中央がこぽっとへこんでいた。膝を抱えて身体を最小限に折り畳んだ状態でテレビを見るのが星のくせだ。くせなのか、まだ緊張しているのかはわからない。
俺の問いかけにどう答えればいいのかわからないらしく、星は両手を前で組んだり後ろにやったりしながら、「あー……」と虫の音みたいに小さく声を漏らす。

 

「――なに、これ?」

 

ダイニングテーブルの上に荷物を置いたとき、そこにあった数枚の千円札が視界に入った。几帳面に均等にずらして重ねてあるそれは、数えると六枚だった。中途半端な金額だ。

 

「あ、それ、食事とか服とかの金です。全然足りないと思うけど……」

 

「どうしたのこれ」

 

正面からじっと見つめると星はわずかに眉間に皺を寄せた。そんなつもりはさらさらなかったが、「変な金じゃないです」と不機嫌そうに言う。ガキだなあと思いながら困った顔を作って笑う俺に、

 

「今日バイトしてきたんで。一日分だし、交通費そこから出したから少ないけど、取っておいてください」

 

と星は言った。

 

「バイト!?その顔で!?」

 

星がむっとするのがまたしても手に取るようにわかった。「あ、いやいや変な意味じゃなくてね」と、なぜか焦って言ってしまう自分が可笑しかった。

 

「だって、ほぼ治っているとはいえ顔も痣だらけじゃない。どう見ても殴られた痕だしさ。面接のとき質問されなかった?」

 

「飛び込みで話聞いてくれるようなところはそういう事情とかは訊かないですよ。面接らしい面接もないし。働いてる人の半分以上が、身分証なんか持ってないんじゃないかな。住所もないと思います」

 

慣れたものだとでも言いたげに星は答えた。「なるほどねえ」と適当に答えてから千円札をまとめて掴み、星の胸に押し当てるようにして預けた。

 

「じゃあ、そういうバイトで金が出来たら住むところも探せるな。この六千円も資金に当てなよ。食費なんて大してかかってないし、服も新しいものをわざわざ買ったわけではないから」

 

驚きに大きく見開かれてもなお、星の瞳は黒目の割合が多く白目がほとんど見えない。奥二重の瞼の目は普段はきゅうっとつり上がっていてお世辞にも愛嬌があるとは言えないが、こうして見ると年相応よりもむしろ幼い顔立ちをした青年だった。
動揺しているらしいその表情に気付かないふりをしてにっこり笑った。

 

「そこは日雇いだけなの?短期で雇ってもらえないか訊いてみたら?」

 

返事を聞かずにキッチンに向かい、持って帰ってきたものを店のタッパーから出してそれぞれ容器に移した。
酢ではなくワインビネガーを使う自家製ピクルスは客にも犀子さんたちにも人気で、作っても作ってもあっという間になくなってしまう。今回は自分用に、少量だけ持ち帰った。
「お野菜はたくさん取らなくちゃね」と言ってぱくぱく食べる犀子さんたちに、この液体の中に入っている砂糖の量を教えたらどうするだろう。いつもそんなことを思う。
誰かが自分の作ったもののために脚を運んでくれたり、金を払ってくれたりするのが未だに少し不思議だ。
商売なんだから「不思議だ」なんて言っていられないけれど、本音のところはね。
作る過程が好きなだけで、誰かのために、とか、心を込めて、と考えたことはない。だからときどき、女性客――そういうことを言ってくる人はたいてい若い――に、「お兄さんの心がこもっているから美味しい」なんて言われるとびっくりしてしまう。
心で美味しくなるのなら、俺は計量スプーンなんか使わないし、フライパンをあらかじめ温めておいたりしない。
ぱちん、と音を立てて保存容器を閉めた。美味しい食べ物に料理人の心がこもっているとしたら、俺はもうすっかり自分を見失っているだろうと思いながら。
冷蔵庫を閉めたとき、張り付けてあるマグネットタイプのデジタル時計を見て、「そう言えば、勤労青年は一体いつ帰ってきたのだろう」と思った。
もうすぐ三時だ。おやつの時間……と言いたいところだが、外は息苦しくなるくらいにとっぷりと暗い、夜中の三時だ。

 

「なあ、星ー。腹は……」

 

リビングに戻ると、タンクトップにハーフパンツという夏休みの小学生みたいな恰好をした星の後ろ姿がぽつんとあった。どちらも俺のものだが、星が着ると俺が着ているよりもさまになる。
スタイルはさまになるけれどどこか頼りなくも見えるというのは、生きてきた年数の違いだろうか。
あまり穏やかではない、と言うかはっきり言って暗いオーラを発している背中に声をかけるのが躊躇われた。
どうやって生きてきたらこんなにわかりやすく感情が体現出来るのだろう。これも年数? 違うと思うけど。

 

「腹は減ってる?何時に帰ってきたの?」

 

「出て行けっていう意味ですよね」

 

会話になっていない。
ため息をつきたかったけれど、ついたらたぶん更に面倒なことになるのですんでのところで飲み込んだ。
殺気立った小動物みたいな後ろ姿に近づき、

 

「なんのこと?」

 

と言ってみる。

 

「もっと、簡単に言えばいいのに。金なんか払わなくていいからはやく出て行けって」

 

くるり、と振り向いた顔を見て驚いた。
俺を睨みつけている真っ黒な瞳が涙で潤んでいるのだ。今時若い女の子でもここまでわかりやすい行動は取らないのじゃないか、と思う。

 

「ずうずうしく一週間も居座ってすみませんでした。失礼します」

 

謝っているのだか喧嘩をふっかけているのだかわからない口調で言い、腰を折るようにして頭を下げた。
脇を通り過ぎて行く腕を掴んで引き止めようかとも思ったが、出て行きたいのなら出て行けばいいと思う気持ちがあるのも事実だ。
未成年でもないし、アルバイトをしながら当面インターネットカフェに身を寄せるという手もある。それこそ彼が今日働いたところに来ていた人たちはそういう暮らしをしているのだろう。
玄関でスニーカーに足を突っ込む細い背中を見ながら、「最近の若い子ってどうしてすぐにプンプン怒っちゃうの?」と、この間犀子さんが嘆いていたなあなんて思い出していた。
もうすぐ五十になろうという元・男の女の人が「プンプン」なんて使うものだろうか、と思ったら笑えてしまい、ふふっと笑い声が漏れた。
それに気付いた星がドアノブにかけた手を一瞬止めた。
一瞬止めて、そのまま動き出さないので、

 

「腹は減ってるの?」

 

と、廊下の壁にもたれかかりながらふたたび訊ねた。

 

「……」

 

「”プンプン”してるのは腹が減っている証拠だろう」

 

振り向きもしないし、ドアノブから手を離そうともしない。しかしそれを動かしてドアを開けるようすもない。
まあいいか、と思いながらのらりくらりとキッチンに戻った。
俺の人生で、あんなに”プンプン”したことがあるだろうか。いやあ、ないな。
鍋にたっぷり湯を沸かし、フェデリーニをざっと入れた。入れる前のほんの数秒悩んだが、無駄にならないことを願って二人分茹でる。
冷蔵庫に仕舞ったばかりの保存容器から牛すじの煮込みを出し、塊のままのそれを適当な一口サイズに切ってゆく。一緒に煮込んだ玉ねぎや人参も切っておき、温めたフライパンにオリーブ油、にんにく、唐辛子を入れて炒める。にんにくに焼き目がついたら具材も投入。
換気扇のスイッチを入れるのを忘れていて、慌ててそれを押した。
ごうごういう換気扇の音は決して耳に心地よくはないが、これがなければキッチンは見る見るうちに真っ黒でべたべたになるだろう。と、換気扇フィルタを掃除するたびに思う。
フェデリーニの茹で時間は、パッケージに書いてあるよりも短くする。牛すじと野菜が入ったフライパンに入れると、茹で汁とオリーブ油がジャアッと音を立てた。
煮込みにしみ込んだコンソメの香りが微かに立ち上る。

 

「突っ立ってるなら皿出してくれない?」

 

視界の端にちらちら入る赤に言った。
勢いよく履いたスニーカーを、そろりと脱いだのだろうと想像すると笑いそうになった。

 

「どんなのを……」

 

小声の主をちらっと見遣ると、目元を赤くしている。怒った形容がプンプンなら、泣くときはなんて言うのだろう。めそめそ?今度犀子さんに訊いてみよう。

 

「俺の後ろの棚に入ってる、白くて真ん中が丸くへこんでる皿。一番でかいやつね。あと、星ピクルス食べられる?」

 

「ピクルスって、ハンバーガーに挟まってるアレでしょ。俺、ちょっと苦手」

 

「あんなうすっぺらいものと一緒にするんじゃないよ、若者。美味しいのがあるからそれも食べよう。冷蔵庫にあるから出して」

 

もたもたと棚を開け閉めする星を振り返り、「ピクルスの皿もな」と言う。目が合ったので微笑んだら、白い肌の頬がさっと赤くなった。顔色がころころ変わることと肌の白さは関係しているのかな。
こうして至近距離で並ぶと星のほうがいささか背が高い。高校時代にぴたっと止まってしまった自分の身長を思い知らされ、オジサンやんなっちゃう、とひとりごちる。
パスタを皿に盛り、電動ミルで粗目に挽いた塩コショウを振りかけて完成させた。
冷蔵庫のデジタル時計は3:31となっている。これは夜食だろうか。夕食を食べていないから、夕食と呼んでも許される?

 

「あ、バゲット出そうか?」

 

テーブルにパスタとピクルスを置いてから言うと、慣れない手つきでグラスに麦茶を注いでいた星が顔を上げた。

 

「バゲットってなに?」

 

「パン。フランスパンみたいなの。食べる?」

 

ぽやん、とした不思議そうな顔が子供のようだ。

 

「食べたい、です」

 

「正直でよろしい」

 

星のぶんだけバゲットも焼いた。
テーブルに座った時点で、たぶん俺は満足しているんだ。いつも。
この瞬間に地球上でなにが起こっているとしても、事実とは関係なく目の前に食材があって、それを洗ったり切ったり茹でたり炒めたりすることのなんと心休まることだろう。
たとえばそれは人によっては歌うことかもしれない。絵を描くことかもしれないし、詩を書くことかもしれない。ごく個人的な行為だ。でもとりわけ料理の優れている点は、食べたらなくなること。
おセンチな芸術は、俺は好きじゃない。

 

「いただきます」

 

フォークを持ち上げて言うと、

 

「いただきます」

 

星もそう続けた。
ピクルスはハンバーガーに挟まっているもので、バゲットの名前を知らないと言う星は、それにしてはやはり意外なほど美しい動作でものを口に運ぶ。
決してわざとらしく丁寧なわけではない。一口が小さいわけでもない。
それでも、すいすいパスタを巻き取るときの指の動きや、肉を噛み切る白い歯は見ていて惚れ惚れする。
バゲットに塗ったバタで光る赤い唇は、犀子さんのそれよりも色っぽい。そんなことを思ったと知られたら怒られるか、それとも妙な誤解ではやしたてられるかどちらだろうと考えた。

 

「美味しいです。肉のパスタも、ピクルスも」

 

膨らんだ星の頬が動くたび、ぱり、と音がする。ピクルスを盛るには若干大きい皿に入っていたそれは、ほとんどなくなりかけていた。

 

「それはよかったよ」

 

「二宮さんって調理師免許持ってるんですか?」

 

「持ってない持ってない」

 

手をひらひらと顔の前で振りながら笑う。星はほんとうに心から感心したように、「へえ」と声を上げた。
瞼や口の端の紫色に染まった痣は痛々しいが、表情が目まぐるしく変わるのを見ているとおもちゃみたいで面白い。

 

「でもお店やってるんですよね? すごく繁盛してるって聞きました。お客さんがひっきりなしに来るって」

 

「すごく、は言いすぎ。そんな言い方するのはどうせミチルさんだろう。あの人の話は半分くらいに削って飲み込んだほうがいい」

 

「三分の二くらいにはしてました」

 

星が当たり前みたいに言うので吹き出した。意外といい性格をしている。
口元だけで笑っていたら、じっと見つめられた。真っ直ぐで短いまつ毛は量が多く、気を付けなければ目に入ってしまうのではと思うくらいばさばさしている。
星の瞳はなにかに似ている――と思っていたが、ああ、小さい頃にテレビで見たキリンのそれだと気付いた。
動物園には行ったことがなかった。でも知識はある。
子供の頃、動物のドキュメンタリー番組を好んで見たからだ。
誰もいない古い家の畳の部屋で食事を取りながら、しまうまの肉をむしるライオンを見ていると、なんだか強くなれる気がした。食べているものが肉料理ならなおさらだった。ぺらぺらの豚肉を塩コショウで炒めただけのものでもね。

 

「さっきは失礼な態度取ってすみませんでした」

 

キリンの瞳で星が言った。
それを見ながら、”では動物が好きだったのか?”と自分に訊いてみる。”そういうわけではない”と瞬時に答えられる。番組が好きだったのだ。人が画面に映らないし、静かだもの。
結局動物園には行ったことがないし行こうとしたこともない。
うるさくて臭いだろうし、ライオンとしまうまは別々の檻に入れられている。

 

「俺、でも、金を受け取ってほしくて。こうやって美味しいものも食べさせてもらってるのに、二宮さんになにもお返しが出来てないし」

 

明け方は感情の起伏が激しくなりやすいのか?と、ぼんやり考えた。星の皿は空になっているので、センチメンタルと空腹具合とは別問題らしい。

 

「そんなのいいからさっさと出て行けよって話なのかもしれないんですけど」

 

そうだね、と相槌を打ったら泣くかしら、と思ったので黙っていた。
向かい合って座っていたらやっと、どぎつい赤に目が慣れてきた。また明日の朝には驚くのだろうが。

 

「……出て行きたく、ないん、です」

 

「なぜ」

 

間髪入れずに訊ねたら、きっと睨みつけられた。意味がわからなくて笑ってしまった。笑うともっと怒らせるとわかっているのに。

 

「どうして俺をベッドで寝かせてくれるんですか?」

 

なんの話だ、急に。

 

「寝具の予備がないから。それにベッドはいちおうセミダブルだし」

 

「二宮さんは、ソファで寝ろって一度も言わなかった」

 

「小さいからね。脚がはみ出るだろ」

 

「俺、期待したんです」

 

しないでよ、と言うか、なにを? と言うか迷った。後者の問いかけのほうがまずい気がする。深く聞くべき話ではない。グラスに並々と注がれたままの麦茶をぐっと飲んだ。

 

「いつか、抱いてくれるかなって」

 

喉を通過しつつあった麦茶が戻ってきそうになった。咳き込みながらも慌ててどうにか飲み込むと、涙目になった。

 

「俺、そんなにゲイとかバイとかに見えるかなあ……。ミチルさんや犀子さんになにをけしかけられたかしらないけど、抱くとかないからさ」

 

「でも朝起きたときは勃ってるじゃないですか」

 

麦茶を飲むのは諦めた。恥ずかしがるほど若くはないが、面と向かって言われるとどういう顔をしたらいいのかわからない。

 

「それは生理現象です。若者よ、学校で習わなかった?あれは睡眠の仕組み上起こるものなの。エッチなことと結びつけないで。あんまり変なこと言うと今日はソファで寝かせるよ」

 

立ち上がって皿やフォークを片付けだす俺につられるかっこうで星も立ち上がった。「洗い物、俺がします」と言う。「いいよ」と断ったら睨まれたので、「お願いします」と言い直した。
殊勝なことを言うと思えば大胆で不躾だ。ジェネレーションギャップなのか、人間性の違いなのか。

 

「気持ち悪いですか。男のくせに」

 

食器洗い用のスポンジを難しい顔で見ながら星が言う。

 

「気持ち悪くはないですよ。あ、フライパンは後でいいよ、洗うスポンジが別だから」

 

隣に並んで言うと、「はい」とか「濯いだらこのカゴに入れていけばいいですか?」と返ってくる。
使い慣れていないというのもあるだろうが、なにをするにも星はぎこちない。本人は無自覚だろうが、それが一生懸命さを演出しているし、或る人の目には「可愛い」と映るのかもしれない。

 

「今日は、ソファで寝ます」

 

手持無沙汰なので食器を拭きながら、白くて小さい横顔を見た。

 

「二宮さんの顔、格好よくて、隣にあるとどきどきするから。朝、起きたらびっくりするんです。寝顔があんまり綺麗で。だからすぐに背中向けるんですけど」

 

「……」

 

「気持ち悪いですよね」

 

自嘲気味。ひとりよがり。不幸ぶっていて、面倒な若者。

 

「俺も朝起きるとびっくりするよ」

 

「え」

 

振り返った黒目に、疲れた自分が映っていた。人と会話をするのは疲れる。ベッドに飛び込んだら三秒で寝られそうだ。

 

「目の前が赤くてね。びっくりするけど綺麗な色だよね」

 

ずっとため込んでいた息を、ふーっ、と吐いた。
ぱちぱちと瞬きをしていた星が、頬を赤くして洗い物に戻る。
腹が満たされると、プンプン怒らないかもしれないが判断力は鈍くなるなあと思った。
ふふふっと笑うと、星が俺をちらりと見た。蛇口のレバーをぱたんとおろす。
訝しげな顔で、

 

「変な二宮さん」

 

などと言う。
アナタに言われちゃお終いよ、と思った。口には出さなかったけれど。
そのかわりに、

 

「洗い物をしてくれてありがとう」

 

と言ったら、星が恥ずかしそうに笑った。

 

 

 

 

 


*To be……*

 

 

 

 

 

 

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