*はじまりのテーブル4*

 

 

 

どんどんどん、とドアを叩く音がした。映画やドラマなんかを見ていても思うけれど、どうして皆切羽詰まるとドアを叩くのだろう。インターホンという文明の利器を無視して。
しかしそれは人間の、本能的な部分がそうさせるのかもしれない。急いでいるとき――たいていはなにかに追われている――に、人差し指で小さなボタンを何度も押すよりも、腕を振り上げてドアを叩くほうが緊迫感が伝わるし、それによって立つ大きな音が自分の状況により共鳴するのかもしれない。ピーンポーンという平和な音よりも。
とは言え、ただいま明け方の四時十分。二時すぎに店を閉め、帰ってきてから軽く食事を済ませてシャワーを浴び、眠りについてからまだ一時間も経っていない。
スリッパを突っかけて自室をでると、リビングの電気がついていた。
赤い髪の後ろのほうに寝癖をつけた星は、でもどうやら俺よりは先に目が覚めたらしく、玄関へ続く廊下に足を踏みだした状態で緊迫した表情を浮かべている。

 

「あ……二宮さん……。なんか、すげえ音で目が覚めて……」

 

「うん。これはすごい音だな」

 

生意気で強気な同居人の若者は、のらりくらりと起きてきた俺の顔を見てほっと小さく息を吐いた。白い肌のこめかみのあたりがうっすら青くなっている。強気なわりに、星はこわがりだ。
どんどんどん、と、ドアの向こうの人はまだ拳を打ちつけている。俺は大きく欠伸をして、スリッパをずるずるひきずるように玄関に向かった。

 

「二宮さん? 開けるんですか? 危ないよ」

 

怯えた声をだしながら、星がぱたぱたとついてくる。お前こわがってるでしょ、と言ったら怒るだろうなと思いながら、

 

「うん。でも放っておくと通報されちゃうからね。ご近所さんに」

 

と答えた。一瞬躊躇ったけれどめんどうなので室内用のスリッパのまま三和土に下り、回すタイプの鍵に手をかける。

 

「それに――」

 

くるりと振り向くと、星が真面目な顔をして俺の腕を掴んだ。内心驚いたが眠気のほうが勝っていたので俺の目はたぶんはんぶんくらいしか開いておらず、そのため星はちょっと気が削がれたように真面目な顔を崩した。しかし気を取り直して、

 

「駄目です。危ないし、警察を呼びましょう」

 

と言った。

 

「いや、でも、」

 

「二宮さんになにかあったら困ります」

 

「うん、だけど、」

 

「無茶しないでください」

 

ずいっと近づいてくる顔を避けながら、「そうではなくてドアを叩いている人物に心当たりがあるのだ」ということをどうやって伝えようか悩んでいると、音が止んだ。
そうして、

 

「へーちゃああああん」

 

という、確かに一人で夜中に聞いたらホラーだと思っても仕方がないなと思ってしまう野太い泣き声がドア越しに聞こえてきた。野太いけれど、なんだかとっても傷ついた感じのめそめそした声。
「ひっ」と短く言った星が俺の腕を握る力を強めたので、笑いながら赤い髪をくしゃくしゃ撫でた。

 

「たぶん知り合いだから。こわいおばけとかじゃないから」

 

宥めるように言うと、図星だったのと子供扱いが気に食わなかったのとで星は頬をさっと赤くして、唇を尖らせた。この青年のわかりやすい表情の変化は、ときどき疲れるけれどそれ以上に俺をほっとさせる。本人に言うつもりはないけれど――そして、犀子さんやミチルさんには更に言うつもりはないけれど――最近そんなことに気付いた。
ウンウンと頷きながら鍵を開けると、かちゃん、という開錠の音がした瞬間にすばやくドアが開いた。ぶうんっ、と小さな風が起こるくらいの勢いで。その瞬間、こわがりの星が俺の背中に隠れたことには、気付いていないふりをしてやった。
明け方になるとぼんやりと照明が落とされるマンションの廊下をバックに、マキちゃんはひどいありさまで立っていた。勢いよく開けられたドアがゆっくりと閉まる。ひどいありさまなんて言ったら本人は憤慨するだろうが、乱れた髪と、泥なんだか食べ物なんだか酒なんだかよくわからないしみだらけのタイトなワンピースと、取れかけのつけまつ毛とほぼとれているファンデーションや口紅は、その言葉以外では表現のしようがない。

 

「へーちゃん……あたし、もう、こわくって……」

 

まるで少女のように、ひっくひっくとしゃくり上げて涙を流しているマキちゃんは、でも俺の記憶が正しければたぶん俺と二つほどしか違わない歳のはずだ。女性になるための手術はしたとのことだけど元来がっちりした身体つきで、どんなに可愛い格好をしていても震える肩は華奢とは形容しがたい。
しかも玄関の三和土に立ったマキちゃんはゆうに十センチはあろうかというヒールのパンプスを履いていて、スリッパの俺と裸足の星は顔をわずかに上向きにしなければならなかった。

 

「なんだ。マキじゃん……こわかったのはこっちだよ……」

 

と星がつぶやいたのはどうやら聞こえなかったようだ。つぶやきに被せるように嗚咽はひどくなり、マキちゃんは"男時代"に水泳で鍛えたという太い腕で力いっぱい俺に抱きついてきた。「うわっ」と言ったのは、俺ではなく星だ。
おんおんと泣くマキちゃんの、筋肉質な背中に手をあてがってあやすように手首をぱたぱたと上下させる。息が苦しくなるのは腕の力のせいだけではなく、むせかえりそうな香水と酒の雑ざったにおいでもあった。マキちゃんが抱きついてきたのでそれに押されるかたちであとじさりした星が、

 

「まったく……ここは避難シェルタじゃないんだぜ」

 

あきらかに不機嫌なようすで言う。お前が言うか、と思ったけれどもちろん言わなかった。生意気で強気でこわがりな若者は、若者らしくナイーブでもあるからだ。

 

「マキちゃん。とりあえず上がりな。あったかいものでも飲もう」

 

俺の言葉に顔を上げたマキちゃんは、真っ黒になった目元をこすりながらこくんと頷いた。顔を覆っていた手が退けられると、唇の端に血が滲んでいるのが見えた。首にも不自然な小さくまるい痣ができている。
まったく、ここは避難シェルタじゃないんだぜ、と俺も思うけれど、でもいつも明るくて友達も多い(ように見える)マキちゃんが、こんな静かな明け方に駆け込んでくる場所がここしかなかったのだと思うとかすかに胸が痛んだ。

 

 

 

マキちゃんは、犀子さんとミチルさんの店――店名はグローリアという。ラテン語で、栄光という意味だそうだ――で働いていた女の子だ。過去形になるのは、数日前に辞めてしまったからである。
その退職を祝う"さよならパーティー"は、犀子さんのお店の女の子たち御用達であるアスランを貸し切って行われた。星もそこにいたし、それ以前にもマキちゃんとはアスランで顔を合わせていた。
出勤前にはよくお店の子たちと一緒にアスランで食事をしてくれていたマキちゃんは、特別美人ではないけれど感じのいい子という印象だった。犀子さんやミチルさんのお気に入りでもあったから、辞めると聞いたときは驚いたし残念にも思った。オカマの世界のことはよく知らないけれど、人間関係も金銭面もそこそこにいい働きやすいお店というのはいまの世の中そう見つからないはずだ。
働き始めて三年目のマキちゃんは、見た目こそちょっぴりゴツめではあるけれど心根が優しく、グローリアの従業員の中ではよい聞き役・相談相手になってくれるお姉さんというポジションだったらしい。彼女を失うのは、どちらかというと客よりも従業員にとって打撃が大きいように思われた(「だってほら、女の子たちの世界だから。嫉妬とか、色々あるでしょう」と犀子さんは言った。俺はノーコメント)。
でも、犀子さんがマキちゃんを引き止めたかったのにはべつの理由があった。マキちゃんが店を辞めるのは、付き合っているろくでもない男に「辞めろ」と言われたからだという。マキちゃんはその男に何度も殴られていて、たびたび顔や身体に痣を作って出勤していたので、いつも店の皆は心配していた。

 

「世の中にはねえ、暴力でしか、自分の気持ちを表現できない人がいるのよね。そういう人がいるのは知っているし、自分でもどうしようもないって思っているのもわかるわよ。でも、だからって許せることでも見逃せることでもないでしょう?」

 

アスランのカウンタでホットワインをちびちびすすりながら犀子さんが言った。暴力でしか自分の気持ちを表現できない人、と犀子さんが言ったとき、俺も彼女もたぶん、同じ人間を思いだしていた。
父はそうだったのだろうか。自分の気持ちを表現するために、俺を殴ったのだろうか。俺自身、人を殴りたいと思ったことがないのでよくわからない。それ以前に、自分を表現したいと思ったこともないのだけれど。
犀子さんは俺の瞳をじっと見て、奥のほうを覗き込むようにしたあと、なにも読み取れないことを悟って諦めたように笑った。
それからきりりと厳しい顔つきになり、「だからと言って」とふたたび静かに続けた。「そういう気持ちに敏感で優しい子ばかりが、傷つけられるのは間違っているわ」カウンタの奥の酒瓶を睨む瞳が、ちょっと男らしく見えた。でも、誰もマキちゃんを引き止められない。ろくでもない男に優しくしてしまうマキちゃんだから、皆を穏やかな気持ちにできたのだ。不幸なパラドックス。
アスランは音楽をかけない店だけれど、その日はグローリアの子たちがカラオケセットを持ち込んでいて、途中から歌なんだか雄叫びなんだかわからない声がこだましていた。
マキちゃんは主役のはずなのに輪の隅っこにいて、でもいつも通りにこにこと笑っていた。手拍子をしたり、合いの手を入れたり。
空いた皿やグラスをせっせと集めて俺のところに運んでくる星を見て、「甲斐甲斐しいなー」とからかったりした。星がムッとした顔をすると、女の子たち(と、呼んでもいいのかこのときはよくわからなくなっていたが)は大袈裟にきゃあきゃあ笑って、陽気に酔っぱらったマキちゃんは俺と星の間に割り込んできて俺の頬にキスをした。「マキ!このやろう!」と星が怒ると場はいっそう盛り上がった。
こんなに楽しく、皆笑っているのに、時間が経てばそれぞれの場所に戻っていかなければいけないというのは絶望的な気がした。
そう感じてしまう類の楽しさの夜だった。
楽しさと悲しさが、同じ線上にある感じ。
大酒飲みばかりの集まりなので食事らしいものはほとんど用意する必要がなく、チーズや生ハムやドライフルーツなんかをだしていた。そのため酒をさほど飲まない星は空腹になったらしく、洗い終えたグラスを拭きながら、

 

「二宮さん、家に着いたらなんか作ってください。腹減っちゃった」

 

と小声で言った。
ぶすくれた横顔にひどく安堵し、それがほんの少し後ろめたくもあった。ここを片づけ、それぞれが散り散りになっても、俺の隣には星が歩いている。恋人でも家族でもない星が。同じ場所に戻り、同じテーブルで向かい合って食事をする。それに安堵してしまうことは、この楽しさと悲しみを裏切ることのような気がした。
カウンタ席に座って俺たちを見ていた犀子さんが、

 

「あら。あんたたちいい感じなの?」

 

と笑って言った。いつも通り「そういうのじゃないです」と答えようとしたのだが、俺が口を開く前に、

 

「ぜんっぜん」

 

と星が言った。あきらかに拗ねたもの言いと表情に、犀子さんは一瞬面食らい、それからくすくす笑った。からかっているわけではなく、たぶん、安堵に。

 

 

 

熱いシャワーを浴びて、俺の古着ではあるけれど清潔なジャージに着替えたマキちゃんはもうずいぶん落ち着いていた。
口元の傷自体は血を洗い流すとさほど目立たなかったが、首の不自然なまるい痣はついさっきついてものではないらしく、やはり不気味なまま残っていた。親指の痕だ、と、俺も星も気付いていた。

 

「はじめてきたけどー。へーちゃんいいところに住んでるんだねー」

 

気を遣わせまいと明るい声をだして、キョロキョロ室内を見渡しながらマキちゃんが言う。ダイニングテーブルには椅子が二つしかないので、星は彼の定位置であるソファのこっぽりとしたまるみに身体を収めていた。

 

「駅からちょっと離れてるから、家賃あんまり高くないんだよ、ここ」

 

「ふうん。でもー一人で暮らすために探したにしては広くなーい? ね、恋人と二人暮らしのために借りたんでしょ? 最初は」

 

マキちゃんのせりふは俺ではなく星をからかうためのもののようだった。そうして、星はわかりやすく眉根を寄せた。

 

「うるせーんだよマキは。そうやって色々詮索する女は嫌われるんだぞ」

 

「好きな人に相手にされないからってひがまないでよね」

 

ふんっ、と顔を背ける、マキちゃんの低くてまるい鼻。出会ったときはもっと頬がふっくらした印象だったけれど……と思った。

 

「マキちゃん、なんかちょっと痩せたんじゃない?」

 

俺の言葉に、マグカップから顔を上げたマキちゃんは嬉しそうににっこり笑った。

 

「ほんとー!? ダイエットしてるんだ、いま。へーちゃんって顔がイケてるだけじゃなくって中身もイケてるね。そういうことに気付く男ってすっごく素敵。あたしのダアはぜんぜん駄目なの、努力しても気付いてくれなくて」

 

「ダアってなんだよ。気持ち悪いな」

 

けっ、と短く吐き捨てるように言って、星はマグカップの中のジンジャーチャイに息を吹きかけている。「ダーリンの略だよん」と言うマキちゃんのせりふは無視して、「二宮さん、これ砂糖入ってる?」と俺を見上げてくる。

 

「入ってるよ」

 

ジンジャーチャイをはじめて飲んだとき、星は「チャイってもっと甘いんじゃないの?」と文句を言った。好みで砂糖を少なめにしていたとはいえ、それでもじゅうぶんに入れたつもりだった。若者は、甘いものはたっぷり甘くしてやらなければ不服そうにする。それからジンジャーチャイを作るときは、自分のぶんは生姜多めの砂糖少なめ、星のぶんは生姜少なめの砂糖多めだ。
星は満足そうに頷いてから一口飲み、「あち」と言って舌をだした。息を吹きかける意味はあったのか? と不思議になる。

 

「こんな時間にごめんねえ。ちょっと、ダアとけんかしちゃって……。でもお友達はだいたい彼氏と住んでるし、そうじゃない子もいまの時間はまだ働いてて連絡つかないし」

 

「いいよ、気にしなくて。明日は仕事なの? あ、まだ新しいところ探してるのかな」

 

明るさの裏にある怯えを隠そうとする気弱な笑顔を見ていると、問いただすことはできなかった。マキちゃんが酒を浴びせられ、殴られ、自分の家を――たぶんマキちゃんのお金で借りている家を――逃げるように出てこなくてはならなかったのが真実でも。彼女が守ろうとしているのが、"ダア"だけではなく"ダアと自分"なのだということはなんとなくわかった。

 

「んー。あたし、近々引っ越すの。もうちょっと遠いところに。だからそこで落ち着いたら仕事探す感じ」

 

少しだけ驚いて間ができたが、

 

「そうなんだ」

 

と、俺はやっぱり問いたださずににこっと笑った。マキちゃんも俺の顔を見てほっとしたように笑った。
それぞれにやり方があるし、守りたいものとか、知ってほしいこととか、隠しておきたいものとかがあるのだ。親身になることと相手の心をえぐることは一見するととても似ていて、その違いに気付かない人が多い。マキちゃんが今日、お友達ではなく俺を選んだのはそういうことをわかっている人間だと思ったからだろう。
――と、流れていた表面上穏やかな空気をぜんぜん読もうとしない星が、

 

「もうちょっと遠いところってどこだよ」

 

と言った。

マキちゃんはとっても優しい、困った顔をして、

 

「北のほうかな」

 

と答えた。具体的に決まっていないか、決まっていても言いたくないという意思表示だ。
意思表示を汲み取ってやる気などまったくない星がイライラしたようすを隠しもせずにソファから立ち上がり、「お前さあ」と言ったところで俺も立ち上がった。テレビ台の端っこに置いてある時計は、05:23と表示している。もう、すっかり朝だ。

 

「マキちゃん、お腹空いてない?」

 

座っているためいつもより低いところにあるマキちゃんの顔は、すっぴんで、近所の子供みたいにあどけなかった。ほとんどまゆ毛がなく、唇も少しかさついているけれど、可愛らしい雰囲気は昔から変わらない。

 

「えーっと……」

 

「二宮さん。またそうやって、飯でどうにかしちゃおうって思ってるんでしょ。そうじゃなくて、いまはマキの話をちゃんと聞くべきで、」

 

勇ましくずんずんとこちらに向かってくる星は、でもだぶだぶのTシャツにハーフパンツの寝間着すがたで赤い髪には寝癖をつけていて、いつも以上に子供じみている。そんな格好で「べき」なんて言葉を使うので笑ってしまった。砂糖をいっぱい入れなくてはチャイも飲めないのに。
面白くなって笑ったら、ぽかんとしていたマキちゃんも少し声をだして笑った。

 

「なに笑ってんだよ」

 

星がますます機嫌を悪くしたのでもっと笑いたかったけれどがまんした。贅肉のまったくない背中に手をあてて、先ほどマキちゃんにしたようにぽんぽんと叩く。

 

「食べよう。朝だし。ね? マキちゃんも、食べよう」

 

「――うん。そうだねえ。もうアスランにもあんまりいけなくなっちゃうから、へーちゃんの作ったごはん食べられないしねえ」

 

あんまりいけなくなっちゃうから、とマキちゃんは言ったけれど、たぶんもう、彼女と店で顔を合わせることはないのだろうと思った。
さあ!そうは言っても、ごはんだ。
なんだか俺たちはこんな時間にばかり食べているね。
いくつもの夜を共有して、朝に食べるごはんなんてすばらしいじゃないか、と、俺は思う。もしも最後になるのなら、昼よりも夜よりも、朝ごはんがいいんじゃないかな。だって一日のはじまりだから。
星はまだなにか言いたそうにしていたが、俺とマキちゃんが話をまとめてしまったので言う"べき"言葉を見失ってしまったようだ。口をぱくぱくさせたあと、

 

「まあいいですけど。腹減ったし」

 

と言う。数時間前に食べたばかりのくせに。
夜に働いている人たちのいいところは、どんな時間でも美味しいものを美味しく食べられる胃を持っているところだと思う。もちろんお酒にやられていて、どんな時間でも美味しく食べられない人もいるにはいるが、グローリアで働いている女の子たちにはそういう子はあまりいない。
冷凍庫を開けると、なにかに使った残りの、ほんのちょっとの牛肉があった。それから、数日前に冷凍したカレーもある。そろそろ使いきってしまわなければならないかつおだしもあったので、献立は決まった。
玉ねぎをたっぷりスライスし、牛肉を食べやすい大きさに切る。
鍋に醤油とみりんとかつおだし、それから水を入れ、ふつふつと沸いてきたところに切ったものを入れる。動物性たんぱく質のだす油のかおりには力があると思う。どこからともなくでてくるアクだって愛おしい。舌触りのいいものではないから取るけれど、それを見ると生き物を食べるんだなという気持ちになる。
電子レンジで解凍したカレーと、残りのかつおだしを加えて更に煮詰める。このときに、もう一つの鍋でうどんを茹でておく。色んなことのタイミングが最後にはかっちり合う感じ――自分がそれをきちんと合わせられる感じが、料理のいいところだ。ちゃんと生きている気がするでしょう。たとえ錯覚でもね。
水溶き片栗粉で少しだけとろみをつけ、器に盛ったうどんにゆっくりとかける。必要なぶんだけねぎを刻んで散らした。
でき上がったところで、「カレーだ」と言ってキッチンに入ってきた星は律儀に「あ、じゃない。カレーうどんだ」と言い直し、いそいそと箸やコップを用意しはじめた。
三人分のカレーうどんがテーブルに並んだとき、やっと六時になろうという時間だった。
テーブルに出されたそれを見て、マキちゃんは「えーっ」と驚いた声をだした。笑いながら。

 

「朝からカレーうどんって。なんかオシャレなサンドウィッチとかパンケーキとかだしてくれると思ったのにい」

 

「マキちゃんのは特別に、たまごも落としてみました」

 

席に着きながら言うと、キッチンに置いている折り畳みの椅子をだしてきて座った星が、

 

「俺には入ってない」

 

とひとりごとのように、ひとりごとにしては大きな声で言う。でも、

 

「星にはまた今度」

 

と言って頭を撫でたら大人しくなった。子供扱いをすると怒るわりに、頭を撫でられるのは嫌いではないらしい。そんな俺たちを見て、マキちゃんが「兄弟みたいだね」とにこにこする。星がまた仏頂面に戻る。
妙な組み合わせの三人は、それからしばしの間無言でカレーうどんをすすった。ずず、とか、ずぞっ、という音の合間に、「美味しい」とマキちゃんが消え入りそうな小さな声で言ったのが、なんだか妙に心に残った。

 

「おいマキ」

 

れんげも使わずにどんぶりに直接口をつけて汁を飲むのに、やはりどこか品のある食べ方をする星が、顔を伏せたまま言う。

 

「なあにー」

 

答えるマキちゃんも顔を伏せている。湯気。カレーのにおい。カーテンのすきまから、嫌でもやってくる朝の光がほそくさしこむ。

 

「北でも南でも外国でもいいけど、お前、死ぬなよ」

 

「……」

 

マキちゃんがうどんをすする、ず、という音が一瞬止まり、でもすぐに、ずずっ、と続いた。しかし言葉は続かなかった。
俺やマキちゃんや犀子さんや店の皆が、マキちゃんのために――お互いのために黙っていることを、星だってわからないわけではないだろう。それを破るのは、星のつよさだろうか。それとも、弱さだろうか。

 

「人なんて、絶対死なないって思ってて、思ってる瞬間に死ぬんだよ。明日はなに食おうとか、いい天気だなとか、思ってる次の瞬間に死んだりするんだ。お前が"ダア"とのけんかを、どっからどこまでが"ちょっとのけんか"なのかがわからなくなってるみたいに、わかんないうちにそのときはくるんだ」

 

「星」

 

珍しく、厳しい声がでた。真っ直ぐな優しさを真っ直ぐに伝えることが最善だとは限らないからだ。
咎める俺の声に顔を上げた星は一瞬だけ瞳を心細く揺らしたが、唇を結びなおして睨むように俺を見てきた。遠ざけてしまいたい類の綺麗さだった。痛々しさと言い換えてもいいかもしれない。
緊迫しかけた空気を解いたのは、

 

「はーっ 美味しかった!」

 

というマキちゃんの声だった。ごくごくっと麦茶を飲み干し、すばやくグラスをテーブルに置く。でもけっして音を立てないようにするのが、繊細なマキちゃんらしかった。

 

「星ってば、なにシリアスになってるんだか。確かにダアとのけんかはちょっとヤバいときもあるけど、でもすぐに謝ってくれるし、基本ラブラブだから大丈夫だしー」

 

彼女の声に、もう怯えはなかった。きめたんだな、と俺は思った。帰る場所をきめたんだ。それと同時に、もう戻らないということも。

 

「でも、ありがとうね。星。へーちゃんもありがとう。ごちそうさまでした」

 

それがわかったからだろう。星も黙っていた。でも、悔しそうに眉間に皺を寄せて。
胸が痛むのは、たぶん俺もマキちゃんと同じ選択をする側の人間だからだ。ただ彼女ほど優しくなかったというだけで。そうして、星の持つ優しさも俺は持っていない。

 

「うん。ちょっと眠ってから帰ったら?」

 

俺の言葉にマキちゃんは笑って首を横に振った。

 

「ダメダメー! 食べたあとに寝たらデブになっちゃうじゃん! お腹いっぱいになったし、もう帰るよ」

 

だけどもう一杯だけお茶が飲みたい、あったかいのがいい、とマキちゃんが言ったので、あたたかいほうじ茶を入れて三人でそれを飲んだ。
適度な重さの胃の中に、無駄なものがない温かな液体がすうっと落ちていった。とても静かなリビングに、やっぱりものをすする音だけが響いていた。うどんほど豪快ではないにせよ。
ちょっぴりゴツめだけど心根の優しいマキちゃんは、俺のジャージを着て、十センチはあるヒールのパンプスを履いて去っていった。にこにこしているのに悲しそうな顔を見ていたら、さよならパーティーの夜を思いだした。犀子さんの厳しい横顔も。皆のどんちゃん騒ぎも。
ばたん、とドアが閉まる。
足音が聞こえなくなったあとも三和土に立ったままの、物凄く感傷的になっている星に声をかけようか迷ったが、めんどうなのでなにも言わないことにきめた。ちょっとだけ触れるには、星は熱すぎる。
もう一眠りしようと思いながら欠伸をして歩いていると、後ろからドンッ、という結構な衝撃があった。

 

「わっ びっくりした」

 

筋張った細い腕が腰に巻きついていた。首や背中に、しっとりとした星の体温を感じる。感情に熱があるとしたら、星のそれはひどく高い。

 

「――帰るって、それでもマキは言えるんだな」

 

ぎゅうっと抱きついてくる腕に力がこもった。あばらが圧迫されて苦しいのか、苦しそうな星の声が心を苦しくさせるのかよくわからなかった。

 

「俺には、帰るところなんかない」

 

そんなことないだろ、と俺は言ってやるべきだったのかもしれない。
だけど美味しいごはんを作るのは、いつだってそれが最後になるかもしれないって思うからだ。
たぶんお前もそう思っているよね、って、言ったらどんな答えが返ってくるか、ちょっとわからない。
だけど――、

 

「勤労青年。ちょっと寝ろ。で、今晩なにが食べたいか考えておけよ。夜に買い物いってくるから」

 

数秒の沈黙ののちに、背中で、ぶふふ、と星が笑った。息がかかってくすぐったい。

 

「二宮さん、ごはんのことしか考えてないんっすね」

 

――だけど、とりあえずは今日も、お前とごはんを食べる。
食べればまた、朝になるから。

 

 

 

 

 


*To be……*

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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