*コースロープ*

 

 

 

目の前で寝息を立てている青年の、綺麗な瞼とやや鋭利な感じのする鼻筋や顎を見ながら、不思議だ、と幸仁は思う。
ベッドから身体を起こしてバスルームに向かう。もともとなにも身に着けていなかったので、バスルームのドアを閉めるのと同時にシャワーを捻った。
立地的な使いやすさからわりとよく利用するこのホテルは、一部屋ずつがさほど広いわけではないが、ほかの宿泊客とほとんどすれ違わないように設計されたデザインが幸仁の気に入っている。それから、バスルームのタイルがベージュやキナリ――或いは元来白だったものが黄色くくすんだ色――でないことも好もしい。
たっぷりした熱いシャワーに打たれてからバスローブを羽織って室内に戻る。ホテル自体は気に入っているが、ホテルというのは往々にして乾燥していると感じる。
必要なものが最小限に備えられたうす暗い部屋の面積のほとんどを占めているベッドの上の状態に変化はない。目をこらしてじっと見ていると微かに上下はするものの、青年はスイッチが切れたように眠っている。
幸仁は冷蔵庫からミネラルウォーターを取りだして飲みながら、ふたたび、不思議だ、と思った。
寝る前は気付かないのだ。
いや、それどころか、行為の最中ですらわからない。
愛し合っているわけではないにせよ、視線を絡ませて、必要であれば唇だって重ねるというのに。
行為が済むと、相手はたいていぱたりと眠る(そうしてくれる相手を、無意識のうちに選んでいるのかもしれない)。ごくたまに、「一緒にシャワーを浴びよう」だの「食事をしよう」だの言ってくるものもいる。幸仁は自分がそれを望んでいないことを知っているが、しかし望まれれば与えることにしているので断わることはほぼない。
その段階でやっと気付くのだ。寝顔を見たり、シャワーに打たれている横顔を見たり、食事をしている姿を見たときに。
相手が、どこかしら明に似ている、ということに。
――しかしこれは妙なことだ―― 考えながら、半分ほど飲んだミネラルウォーターのペットボトルを冷蔵庫に仕舞い、ゆったりとした足取りで窓のそばに立った。
明に恋愛感情を抱いたことはない。もちろん寝たいと思ったこともないし、それは行為のあと、相手と明の共通点――たとえば、髪色。涼しげな一重瞼の目元。赤い唇。白い肌。ファッションの感じ――に気付いてしまった瞬間、自分の感情が引く波のように目の前の人物から離れていくことで証明されてもいる。
これは、娘が、自分ではそうと知らずに父親に似た相手と結婚してしまう、というのと同じようなものだろうか、と考え、あまりの突拍子のなさに一人でくつくつ笑ってしまう。
早朝。ホテルの高層階から見下ろす道路には、黄色のタクシーがずらりと並んで停まっている。なにかを思いださせるそれを見ていると、

 

「……うー……」

 

という、がさがさした唸り声とともにベッドの上の物体が動いた。

 

「おはよう」

 

幸仁は窓の外から室内に視線を移し、眉間に皺を寄せている青年ににっこりと微笑みかける。

 

「はよー……ござい、まっす」

 

肉がないせいでごつごつと見える手のひらで顔を擦りながら、いかにも眠たげに青年が返事をする。
幸仁は小さく声にだして笑いながら、

 

「まだ眠っていても大丈夫だよ。チェックアウトは十一時だ。俺は仕事があるから先にでるけれど、ゆっくりしていくといい」

 

と言って濡れた髪を掻き上げた。

 

「あー……。でも、オレもバイトあるんで。シャワー、してもいいっすか」

 

「どうぞ」

 

手でバスルームの方向を示しながら答えた。青年が「どーもっす」と言って金色に染めた髪をばりばり掻く。
ふらふらしながらバスルームに向かう白い背中(細い腰。引き締まっていると言うよりは、痩せすぎで肉のない臀部)を眺めていると、視線を感じたのか青年が振り返った。

 

「なにかな」

 

だが、目が違う。と幸仁は思う。明の目の色は、目の前に全裸で立っている青年のそれよりもっとうすい。

 

「おにーさんさあ」

 

お兄さん、などと呼ばれると、一気に老けたような気がした。しかし年齢どころか名前も知らないこの青年と自分の間に、十近い歳の差があっても驚かない。寝てみてそう思った。

 

「もしかして寂しい人?」

 

「……」

 

理解の範疇を超えたせりふだったので、幸仁は目をまるくして首を傾げた。「寂しい?」という問いかけならまだしも、「寂しい人?」というのはなかなか新しい。若い子は面白いんだな、と年寄りめいた感想を持った。

 

「だって、昨日会ったばっかりのオレに、すっげー優しいエッチするんだもん。行きずりなんてふつう、もっと変なプレイとか、こっちの身体なんかお構いなしに何回もヤるとか、そういうもんだよ」

 

「それは」青年は笑っていなかったが、幸仁は真面目な顔を作ることもできずにくすくす笑ってしまった。「それは、回数や、――”プレイ”とやらに不満が残ったっていう意味なのかな」

 

「……違うけど」

 

笑ったことは、やはり青年の気に障ったようだ。むっとした顔をされたので、「失礼」と幸仁は謝った(が、青年は更にむっとした顔になった)。

 

「違うけど、優しくしたりすんのは、ほんとうに好きな子にしなよ。おにーさん、ちょっと胡散臭いけど、背も高いしカッコイイし、ちゃんと恋人としたほうがいいよ」

 

幸仁は声をだして笑うのを止め、

 

「どうもありがとう」

 

と、自分でもパーフェクトだと思う笑みを浮かべて言った。青年はまだなにか言いたげにしていたが、さすがに寒くなったのか、細い腕をさすりながらバスルームへと消えていった。
ほんとうに好きな子、という言葉を、幸仁は頭の中で繰り返す。ほんとうに好きな子。
ほんとうに好きなわけではないから優しくできるのだ、と言ったら、青年はきっと奇妙な物体でも見るような目をするだろう。その顔が、少し見てみたいような気もした。
彼がシャワーを終えてでてくる前に部屋を去ったら、不義理だと思われるだろうか。ベッドサイドのデジタル画面に表示された数字を見ながら思う。できれば自宅に戻って、仕事にでる前に、日課にしているランニングを少しでもしたいのだけれど。
数分しか経っていないはずなのに、窓の外の空は白く光りはじめている。
幸仁は目線を落とし、並んでいるタクシーをもう一度見ると、「ああ」と小さくつぶやいた。並ぶ黄色の車体は、プールのコースロープを連想させた。
連なった、赤や黄や白のコースロープがあったのは、通っていた中学のプールだ。確か、高校にはなかったと思う。なかったのか、覚えていないだけなのかはわからない。
幸仁にとって過去の記憶はたいてい明と結びつくものであり、それ以外はとてもあいまいになってしまっているからだ。
自宅に戻ったら、明に電話をしてみようか。
そうして、訊いてみよう。コースロープを覚えている?と。
明はきっと、「は?」と言うだろう。「意味わかんねえ」とか「働きすぎでボケたのか」とか、彼らしい悪態を二、三言吐くだろう。それから裏表のない善良な声で、「朝飯食ったのか? っつうか、ちゃんと寝てるか?」と言うだろう。
あまりにもありありと想像できるので、幸仁は一人で笑ってしまう。濡れた髪をタオルでざっと拭き、服を着替えながら「明に電話しよう」と決める。一日の最初の予定が”明への電話”だというのは、咄嗟の思いつきにしても素晴らしい。
幸仁はシャツを羽織り、胸元のボタンの上から三つめまでを開けた状態でジャケットも羽織った。髪は濡れているし髭も剃っていないが、地下に下りて車にのるまでに人にでくわすことはないだろう。あったとしても、いまの自分の姿がこれはこれとして魅力的だということを幸仁は知っている。
ホテルの部屋をあとにする頃には、コースロープのことも、数時間前に抱き合った相手のことも、すっかり忘れてしまっている。
ただ、愛しすぎる友人の顔だけが頭に浮かんでいた。

 

 

 

 

 


*fin*

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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