*薫と優人 カインドネス*

 

 


「デートしようぜ」

 

と、優人が言った。
金曜日の夜で、食事を済ませて風呂から上がったばかりの優人は身体中から熱気を発しながら下着一枚の格好でフローリングの床に座った。

 

「デート?」

 

読んでいた本から顔を上げると、山茶花の香りが鼻先をかすめた。優人が気に入って使っているシャンプーの香りだ。近所のドラッグストアには売っていないため、なくなりそうになるとわざわざ電車に乗って大型スーパーに買いに行く。
俺ではなくもちろん優人が買いに行くのだが、たいていは一緒に行くことにしている。ワンフロアの半分以上を埋め尽くす大きな書店があるし、一階のフードコートで飲むタピオカジュースがちょっと楽しみだからだ。カップのサイズが一つきりしかなくて半分ほど飲むと腹が膨れてしまうのが難点ではあるけれど、残りは優人が飲むから無駄にしてしまうことはない。
液体が残り少なくなってくるとどうしてもカップの底にタピオカが溜まってしまう。それを真剣に吸い上げる優人の顔は、はっきり言って間抜けだしブス。俺はいつも笑いをこらえている。

 

「うん。明日さ、どっかで待ち合わせて、映画でも観よう」

 

いかにも”俺っていいこと思いつくだろ?”みたいな得意気な笑顔で優人は言う。

 

「待ち合わせ?わざわざ?」

 

俺にとってはでも、全然いいことには思えなかった。だって俺と優人は一緒に住んでいるのだから、出かける場所も帰ってくる場所も同じなのに。それに「デート」なんてしなくても、そうやってシャンプーを買いに行ったりフードコートでタピオカジュースやたこ焼きを食べたりしているだけで十分だと思う。と言うか、違いがわからない。

 

「ああ、俺には見える……。ありありと見える……。薫さんの頭の中が」

 

妙に芝居がかった口調で首をぶんぶん横に振っている姿に白けた視線を向けたが、そんなことでめげる男ではない。優人は気は小さいが結構図太いところもあるし強引だしマイペースだ。長く一緒にいるようになってそれがわかった。気配り上手と言うよりただ細かいだけのような気もするし、こだわりが強いと言うよりしつこいだけのような気もする。

 

「なんだよ」

 

「どうせアレだろ?”一緒に住んでるんだからわざわざ待ち合わせてどっかに出かけるなんて意味がわからないし無駄”とか思ってるんだろ?」

 

目と目の間に人差し指を突き付けられて、ぴたっと視線が吸い寄せられる。
優人は満足気に口元を湾曲させて、「寄り目になった」とにやにやして言った。いちいちムッとした顔をしてしまう俺もガキっぽいけれど、そんなことでいちいち楽しそうにしている優人はもっとガキだ。
手加減なしでその手を叩いたが、「痛いよー」と笑うだけでダメージはちっともないみたい。身体を鍛えようかな、なんて、最近思う。握力とか。

 

「その通りだよ。観たい映画があるなら一人で行けば」

 

「冷たいなあ。観たい映画があるんじゃなくて、薫と一緒に映画を観たいの。夕方に映画観て、夜はどっかちょっといいとこで飯食ってさ。そういうデート、したことないだろ?」

 

「ない」俺は本に視線を戻す。「ないし、したいとも思わない」

 

これは、少し語弊がある。ほんとうは。
したいと思わないわけではなく、している自分が想像できないのだ。
流行りの洋服や、食べ物、映画、新しくできた商業施設……優人がそういうものを好きだというのは知っているし、そこに俺を連れて行って喜ばせたいとか楽しませたいと思ってくれていることもわかる。
でも、賑やかな場所に行くとそれだけでどうしたらいいのかわからなくなってしまうのだ。楽しそうなカップルや友達同士のグループ。ベビーバギーを押している若い夫婦……。
立っているだけでも場違いに思えるのに、その上優人が女の子ばかり並んでいるホットケーキの店――パンケーキ、と言うらしいけど――に並ぼうと言い出したり、どう考えても子供を対象にした”バルーンアート体験”に参加してみようと言い出したりするものだから、もともと仏頂面なのにそれが更に硬くなってしまう。
ホットケーキは美味しかったし、優人が作ったバルーンアートの小さなくまは驚くほど上手くできていた。だけど、いったん硬くなった俺の顔はたぶん硬いままだったと思う。
それについて優人はどう思っているのだろう。がっかりさせたんじゃないだろうか。そう思うと、気持ちが重くなる。
初めてのことが多すぎて戸惑う。
楽しむって難しい。”難しく考えない”って、すごく難しいんだ。

 

「えー。嫌なの?」

 

やはりめげない優人は言う。
背中にぴたりと胸をくっつけて、腕で軽く包むようにしながら俺を覗き込んでくる。さっきから一ページも捲れない本に濃い影が落ち、俺はむせかえりそうな山茶花の香りに無意識に瞼を閉じた。
――あ、いま、右頬に優人の顔が来たな――と、瞼を閉じたまま思った。ほどなくして、先ずは鼻先が触れ、すぐに唇が当てられた。

 

「じゃあ、ちょっと遠出してサファリパークとかは?車に乗って園内が回れるようなやつ。弁当持ってさ」

 

子供の遠足じゃあるまいし。そう思いながら身体をわずかに内側に傾けると、顎を掴まれた。さっき頬に当てられた唇が唇に下りてくることを期待した。もちろん、きちんと下りてきた。

 

「それが嫌なら水族館。イルカショーとかあるとこ」

 

「……なんでそんなに外行きたがるんだよ」

 

至近距離で向かい合ったとき、いつからか優人の顔を触るのがお決まりになった。さふさふしたまゆ毛とか、うすくてつめたい瞼。「最近笑わなくても目尻に皺が……」と言って本人は嫌っているその皺にも指で触れる。頬骨。痩せた頬。耳も、やっぱり少しつめたい。耳たぶには塞がったピアスの跡が、楊枝でつついたみたいに小さく残っている。

 

「え、なになに薫さん。ずっと室内で俺とやらしいことしたいって意味?」

 

大事なことを言う前ににやにやするのは優人の癖だ。からかいに引っかからずにじっと見つめていたら、ばつが悪いというふうに口をアヒルみたいに歪めた。可愛くないったらない。

 

「お節介かもしれないけど、薫に色んなものを見たり体験したりしてほしいんだよ。俺」

 

「なんで?」

 

胡坐をかいた優人の腿に跨ると、しっとりと熱っぽい腕が背中側から腰に回された。だから俺も両腕を首に回してくっついた。俺の人生で、母親の胎内にいた頃を除いてこんなに人と密着したことはないだろうと思う。
恥ずかしさより愛おしさが勝る。二人きりなら、こうやってほんの少し素直になれるのに。

 

「気付いてない?薫、ちょっとずつ変わってきてるよ。美味いもの食べたり、面白いもの見たりすると表情にも出るようになってるし。俺、お前って別に無表情じゃないと思う。ただ、そういう体験が少ないだけなんだよ。本の世界も悪くないし、二人でごろごろしてるのも十分楽しいけどさ。他のことだって、やってみなきゃ楽しいか楽しくないかわからないじゃん」

 

肩に頭をのせた格好で聞く優人の声は、いつもよりちょっと低く感じられる。身体中にその声が響いて、俺の中を満たして行く。
大きな掌が俺の太腿の内側を這う。男は同時に二つのことをできないとなにかで見たことがあるけれど、優人に関してはそれは当てはまらないように思う。
膝上丈のハーフパンツの裾から指がするする侵入してきて、いささか窮屈そうに、でも手慣れたようすで下着越しに俺を撫でる。
緩やかに煽られる感覚が、俺は嫌いじゃない。ゆっくりそこを撫でられ、声も出さずに小さな痙攣だけで果てることもある。そういうとき、優人がとても優しく、「気持ちよかった?」と訊ねるので、「きもちよかった」と俺は答える。庇護されている子共みたいな気分になって。

 

「こういうことと一緒だよ」

 

ぷちんと弾けた悦びから、とろみのある温かな液体が溢れる。水面に雫が一粒落ちたときのように、輪っか状になって俺の全身をさざめかせる。

 

「気持ちいいときはいいって顔するし、痛いときは痛いって顔するだろ。それはでも、何度も繰り返すからそうなったわけで。一度や二度じゃなんにもわかんないよ。だから、色んなところに出かけて色んなことしよう。楽しくなかったら、それも楽しくなかったって思い出になるから」

 

でもがっかりしない?
俺を嫌いにならない?
他の子の”思い出”と比べたりしない?

 

「いっぱい経験して、もっとわかりあいたいからさ」

 

抱き寄せられた腰に、優人の熱が当たる。どこかしこ、暑苦しいくらい熱い男だ。単純だし、馬鹿だし。
俺がどんなに嫉妬深いか、小さなことをいつまでも覚えている人間か、優人は全然気付いていないんだろうな。
”元バイト先の後輩”って女の子から電話がかかってきたり、”専門時代の仲間”の男友達から飲みに誘われてたりするのを見るたびに、それに「おーっす久しぶりー」なんて明るく答えている間抜けな後頭部を鈍器で殴ってやりたいと思っているなんて、知らないんだろうな。
もっとわかり合う、なんて、無理だよ馬鹿。お前は俺とは全然違うんだから。

 

「……気持ちいい?薫」

 

「きもちい……」

 

「デートする?明日」

 

「しつこい……」

 

それでも、俺の不安なんて知らない優人が、俺は好き。
その隣に並ぶ自分のことも、前よりは少し、ましだと思えるようになった気がする。

 

 

 

明日は水族館がいいって言おうかな。
体力が残っていればの話だけどさ。

 

 

 

 

 


*fin*

 

 

 

 

 

 

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