*鮫軟骨成分*

 

 

 

少女だった頃。
クラスに好きな男の子がいるというのは、結構嬉しいことだった。好きだからといって、付き合うとかそんな話にはならなくて、ただ、今度の席替えでなるべく近くの席になれますようにとか、修学旅行の自由行動、同じ班になれたらいいのになとか、そんなことを考えられるのが嬉しかった。華やぎ、とでも言うのだろうか。そういうものがあった気がする。少女だった頃。
職場に好きな男がいる、というのは、全然、嬉しいことじゃない。楽しいことでもない。ひどく神経のすり減ることだ。
職場に、好きな、年下の男がいるというのは。

 


朝起きて目を擦ったらいやな感触がした。見ると、指先がところどころ黒く汚れていた。瞼が上手く開かない感覚といい、この黒ずみといい、「あーまたやっちまった」とあたしは思った。
うつ伏せに寝そべったままベッドから腕をだらっと垂らし、近くに放りだしてあった鞄をずるずると引き寄せる。中に手を入れて化粧ポーチを探りあて、そこからコンパクトを取りだした。
ああ、鏡なんか見たくない。そう思う気持ちに嘘はないのに、一方であたしは迷いなくコンパクトを開いて鏡を見つめる。そうしなければ一日が始められない。夢から覚めるためには現実を見るのが一番手っ取り早いし、見てしまえば諦めもつく。夢を捨てよ。現実を生きるしかないのだ。と、あたし自身が教えてくれる。

 

「うへっ。どろっどろだわ」

 

指紋でやや曇った小さな鏡でも、あたしの肌が――正確には、肌に塗りつけたファンデーションが――どろりと溶けているのがわかった。頬には乾いたマスカラがぽろぽろと落ちているし、先ほど擦ったせいで目のまわりは四十八時間くらい起きっぱなしの人みたいに真っ黒だ。
しかも息が酒臭い。昨夜はどれくらい飲んだんだっけ、と思いながらベッドから起きあがる。職場の同期との女子会(という呼び名を、あたしはなんとなく恥ずかしいと思っている。口にはださないけれど)は、皆揃って飲助であるためほかの会よりも深酒になってしまう。その上昨夜は、酒の肴が美味しすぎた。酒の肴、と言っても、もちろんつまみのことではない。そして、美味しすぎた、と言ってもあたしにはあまり合わなかった。化粧も落とさずに眠ってしまったのは、たぶんそのせいだ。

 

「あー、こんちくしょう」

 

わざと低くつぶやき、ストッキング、スカート、ニット、ブラジャー、視界に入った順に拾い上げて、そのままバスルームに向かった。

 

 

「あれ。小野坂さん香水かえました?」

 

デスクに座ってサプリメントを口に放りこんだ瞬間、後ろから声をかけられた。振り向くと、洒落たスーツに身を包んだ小柄な男の子が立っていた。朝っぱらからよくもまあそんなふうに愛想よくできるもんねと半ば尊敬の念もこめて言いたくなるほど爽やかな笑みを浮かべて、「あ、って言うかおはようございます」と言う。

 

「おはよう和泉くん。よく気付いたね。ごめんなさい、かおりキツいかな」

 

サプリメントを急いで飲みこみ訊ねた。いまどきの男の子はお洒落なだけじゃなく、職場の先輩の香水がかわったことにも気付くのか、と思うとうんざりした。和泉くんが悪いわけではないけれど、なんとなく。

 

「いえ、いいかおりだなと思って」

 

にこっと和泉くんが首を傾けて笑う。うへぇ、って舌をだして言いたくなるような、甘ったるい笑顔だ。

 

「そう? それならよかった。ありがとう」

 

もちろん、うへぇ、なんて言わない。きちんと微笑み返しながら、素早く周囲を見遣る。誰もあたしたちを見ていないことを確認して、密かに胸を撫で下ろす。
和泉くんは少し前に、新人としては異例のスピードで我がCM企画チームにやってきた男の子だ。くりっとした大きな目に、すっきり通った鼻筋。どこぞのアイドルみたいな顔立ちをしていて、あたしは彼を見ると、「男の子」って単語が頭に浮かぶ。男ではなく、男の子。無邪気で、綺麗で、それ故残酷な(被害妄想かもしれない。でも)。
ふんわりと整えた茶色い髪がやや明るいことが気になるけれど、見場がよく、仕事もできて、その上お世辞も言えるとくれば、髪の明るさくらいで彼に文句をつける人は誰もいない。それどころか、色んな部署へと散り散りになった同期の女子会ですら「千佳子のチームに超可愛い男の子入ったじゃん」なんて話題になるくらいなのだ。うっかり「ちょっと髪が明るいんじゃない?」なんて注意でもしてしまったら、和泉くん狙いの若い子になにを言われるかわかったものじゃない。接点を持ちたいからわざと注意した、とか。
そうだ、とあたしは思う。
昨夜の肴が、和泉くんなら驚かなかった。こういう、誰にでも愛想がよくて可愛らしい容姿の若い男の子なら、同期の友人が突然「告白した。そんで、ふられた」って大声でわめきだしても、あそこまで動揺はしなかった。
なんとなく手持ちぶさたになって、手にしていたプラスチックケースをかしゃかしゃと振った。

 

「ビタミンかなにかですか?」

 

それに気付いた和泉くんがふたたび――否、いつも笑っているからふたたびというのはおかしいかもしれない――にっこり笑って言う。うげ、とあたしは思う。墓穴、と。
透明のケースに入っているのは、実家の母親が大量に送ってきたサプリメントだ。母曰く、「骨にいいのよ。関節痛とか」だそうだ。なにそれ、おばさんが飲むもんじゃん、という言葉をのみこんで、「まだそんなのが必要な歳じゃない」と反論したら、「でもお肌にもいいって書いてあったわよ。なんでも早めの予防がいいんだから、飲みなさいよ。それに、ちょっと買いすぎちゃって。あんまりたくさんあるとほら、お父さんに叱られちゃうから」とか言っていた。さしずめ真夜中の通信販売かなにかで爆買いしたのだろう。
パッケージには、〝サメ軟骨抽出物1200mg〟とあった。よくわからないけれど、サメの軟骨を飲もうなんて人間って妙なことを考えるものだ。

 

「あ、うん、えーと、」

 

口元をまごつかせるあたしに和泉くんが首を傾げたとき、遠くのドアノブがガチャリと音を立てた。

 

「あ、八雲さん」

 

開いたドアのほうを向いて、明るい声で和泉くんが言う。やっと解放された、という安堵よりも、発せられた名前に心臓が跳ねた。慌ててデスクに向き直る。
まだ電源を入れていないパソコンの画面の端に、黒っぽい人影が映る。八雲くん――同じチームの八雲奏太くんは、今日も黒いコートを着ている。彼のワードローブは基本的に黒一色だ。ファッションに興味がないわけでも、無精なわけでもないのは、身につけているブランドを見れば一目でわかる。まったく頓着しないのもアレだけど、洋服にコダワリを持っている男もアレよね、と、心の中で毒づく。

 

「八雲さーん。はよーございまーす」

 

すぐにこちらにやってくるのだから待っていればいいのに、和泉くんはなぜかぱたぱたと八雲くんに走り寄る。心なしか、甘ったるい声は甘ったれた子供の声にかわっているような気がした。懐く要素がある人物には到底思えないけれど、和泉くんは八雲くんに懐いている。

 

「おはよ」

 

それに答える八雲くんの返事は短い。「お」がほとんど聞こえなくて、「はよ」という感じ。
朝。背中で聞く声は、昼間のそれより更に低く素っ気ない。ぼそぼそしている、という表現がこれほどぴったりくる人物も珍しいのではないか、と思うと同時に、その声が一般的に「いい声」に分類されることもわかっていて、なんだか悔しい気持ちになる。手の中で謎のサプリメントをかしゃかしゃいわせながら、パソコンの電源を入れる。根元が伸びて三分の一くらい地爪が見えた状態のジェルネイルが視界に入る。そろそろサロンの予約を入れなくちゃ、と思い、めんどくさいな、とも思う。はじめは楽しかったはずなのに、いつからか義務みたいになっている。しがらみが増えていく。ネイルも美容院もヨガも7cmヒールのパンプスも華奢な指輪も恋愛も。

 

「そうだ、この間八雲さんが言ってた映画、観ましたよ」

 

二人分の革靴の足音が近づいてくる。和泉くんの立てる音は高く、八雲くんの立てる音は低い。足音にさえキャラがあるなんて、不思議だ。

 

「そう」

 

どうだった? と、八雲くんは訊かない。この男は必要なことしか話さない。

 

「超面白かったです。途中まではすげえイライラしたんですけどね。あの、敵側の政治家の息子、あいつが馬鹿すぎて」

 

「そう」

 

声に、わずかに笑みのようなものが混ざる。

 

「けど、それすらラストの爽快感のための伏線っていうか。最後まで観たら、やられた! って感じでした」

 

「そりゃ、よかった」

 

あ、笑った。と、あたしは思う。いまのは笑った声だ。ちらりと視線だけ動かすと、黒いコートの痩せた背中が斜め後ろを通り過ぎていくところだった。タイミングよくと言うべきか、悪くと言うべきか、ばっちり目が合ってしまった。

 

――告白した。

 

同期の友人の声が蘇る。大声をだして、テンションで振り切っちゃおうという程度には、彼女は本気だったのだ。

 

「おはようございます」

 

わずかに綻んでいた目元から感情を排除して、八雲くんが言う。

 

――そんで、ふられたっ! すました顔で、「付き合えません」って一言! 心こめろとは言わないから、「すみません」とか「ありがとう」とか、もうちょっとなんかあるだろ馬鹿ーっ

 

そんな言葉を思いだしながら、彼女の言う〝すました顔〟ってのは、いまあたしが見ているこの顔とまったく同じなんだろうなあなんて思っていた。黒々とした瞳。ざらついた感じのする肌。鼻の高い男だ、といつも思う。背も高い。姿勢は悪いけれど。

 

「八雲くん、おはよう」

 

鳴るな、心臓。あたしは自分に言い聞かせる。
夢を捨て、現実を生きよ。コンパクトを開くわけにはいかないので、呪文のように唱える。
昨夜は結局、八雲くんにまつわるさまざまな噂を酒の肴に、さんざん飲んだ。八雲くんは一部の女の子にはモテるけれど、一部の女の子にはわりと嫌われている。暗いとか、こわいとか、宇宙人とか言われている。どれも間違っていない、とあたしは思う。
そんな人だから、噂は絶えない。取引先の女をとっかえひっかえしているとか、実は同棲中の彼女がいるだとか、不倫しているだとか、女に興味がないだとか。噂というのは得てして裏付けがなく無責任だ。だからこそ盛り上がる。ぎゃあぎゃあ言い合って、下品に笑った。
小洒落たワインバーに集う、小洒落た男女や若い女の子たちが時折眉を顰めてこちらを見ていた。うるさがられていることはわかっていたけれど、そうするしかなかったのだ。友人は泣きそうな顔をして笑っていたし、あたしもなんだか遣る瀬無かったから。
友人を励ましたい気持ちに嘘はないのに、どこか馬鹿にしている自分がいた。告白なんて、いい歳して馬鹿みたい。八雲くんがどういう人か少しでもわかってたら(つまりあたしだったら)、そんなことしようなんて思うはずがない(思えるわけがない)。
噂話の中心にいたのはあたしだ。ネタを持ってくるのはほかの子たちだったけれど、「ああ、彼は確かにそういうところあるよ」と、知ったかぶって頷いていた。彼と同じチームで働いている。それだけが、昨夜のあたしを支えていた。友人のように告白することも、和泉くんのように屈託なく話しかけることもできないあたしを。
どうしてだろう。好きな男の子が同じ空間にいるだけで楽しかったあの頃と、一体なにがかわったというのだろう。
好きです、って、あたしが言ったら、この男はどんな顔をするのかな。付き合ってくださいと言えば、たぶん友人と同じように「付き合えません」と返されるのだろう。そうじゃなくて、好きですと言ったら。

 

「あのね、サメの軟骨よ。和泉くん」

 

きゅるっと椅子のキャスターを回して、あたしは言った。まるで、仕事に関する重要事項を伝えるかのような声で。「ビタミンかなにかですか?」という和泉くんの質問に対する答えだったけれど、目は八雲くんを見ていた。黒い背中の後ろに立っていた和泉くんが、「ハ?」と間の抜けた声をだす。

 

「サプリメント」

 

ビタミンなんかじゃどうしようもないのよ、あたしたちくらいになると。あんたみたいな男の子には、わからないでしょうけど。
八雲くんが〝すました顔〟であたしを見下ろしている。友人を泣かせやがってこのやろう、と思おうとするのに、心臓は、あたしが用意した心の声をかき消すようにどきどきとうるさく鳴っている。ああちくしょうこの男は、どうしたって好みのタイプなんだ。

 

「……コンドロイチン?」

 

ぼそっと、八雲くんが言う。低い声に、背筋がぞくぞくぞくっと腰のあたりから震えた。「ヘ?」と間の抜けた声をだしながら、和泉くんが八雲くんを覗きこむ。大きな目。距離が近い。和泉くんが男の子でよかった。そうじゃなかったらいじめていたかもしれない。嫉妬心というやつだ。

 

「サメの軟骨。コンドロイチンじゃなかったですっけ」

 

八雲くんが首を傾げる。社会人としてどうなの、と言いたくなるような、もあもあした鬱陶しい黒髪が揺れる。ボタンの開いたノーネクタイのシャツから、出っ張った鎖骨が覗いている。

 

「……そう、だったと思う。たぶん」

 

まさかこの男が喋るとは思わなくて、答えた声は、和泉くんのことをどうこう言えないくらい間抜けだった。
ぽかんとした顔で見上げるあたしに、八雲くんは続けて言った。

 

「小野坂さんには、べつに必要ないんじゃないですか」

 

長い指が、あたしの手の中にあったプラスチックケースを、ちょん、とつついた。かしゃ、と乾いた音がする。
その瞬間、心臓に直接触れられたみたいな気分になった。どきどきしすぎて倒れそうだった。もう、少女ではないのに。

 

「必要よ」

 

わざと声を低くして答えた。頬に、かーっと熱が上ってくる。

 

「神経すり減りまくってるんだから、サメにでも頼らなきゃやってられないの」

 

きゅるっと椅子のキャスターを回して背を向けた。男の子たちの目に、あたしの背中はどう映っているのだろう、と思いながら。

 

「……サメの軟骨って、神経に効果あるんすか?」

 

やや潜めた声で和泉くんが言う。そんなわけねーだろ馬鹿和泉、とあたしが思うのと、

 

「さあ。どうかな」

 

と八雲くんが答えるのとは同時だった。声は笑っていた。
どうせ、訝しげな和泉くんの顔が面白かったとか可愛かったとかそんなことだろう。
そんなことだろうと思うのに、振り返ることができなかった。もしも、万が一、あたしのほうを見て笑っていたら、心臓が持たないから。
職場に好きな男がいるなんていうのは、神経がすり減るばかりでちっとも嬉しくも楽しくもない。
だけどやっぱり、いないよりはいるほうがいいのかもしれない。
ふん、と鼻息を吐く。次の休みにはネイルにいこう。伸びすぎた爪でキーボードを叩きながらあたしは思う。
まだ、サメにばかり頼っているわけにはいかないのだから。

 

 

 

 

 


*fin*

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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