*A fool*

 

 


日曜日の午後。おもてはひどい雨で、部屋の中は電気をつけていてもどこかどんよりと暗い。
だらら、だだ、だ、という不規則な雨の音――正確には、雨が塀や屋根を打つ音――をBGMに、俺は部屋着みたいな恰好のまま足の爪なんか切っている。新聞紙なんか広げちゃって、せっかくの休みの午後にそんなことしているなんて、おっさんみたいだ。それも、俺が一番なりたくないタイプのおっさん。

 

「宝が悪い」

 

親指の爪を切ると、ぱちん! と一際大きな音がした。雨の音だけが聞こえる部屋の中で響くそれは、ひどく虚しく心細い。音楽でもかけようか、とリモコンを手に取ったけれど、プレイヤーに入っているのが宝の気に入りのバンドのアルバムだということを思いだしてやめた。
心細い雨の日に、恋人が選んだ音楽をかけるなんて恐ろしいことはできない。だってたとえばそれは、空港からの帰り道に彼の車の中で聴いた曲であるし、夕飯を作ってくれている背中を眺めながら聴いた曲であるし、ベッドの中でふくらはぎや肋骨の感触を確かめていたときに聴いた曲でもある。

 

「宝が悪い」

 

携帯電話に、同じ女の人から何度も何度も電話がかかってくる(何度も、というのは大袈裟かもしれない。だけど俺の知っている限り少なくとも二度で、二度は俺にとって〝何度も〟だ)。誰なのかと訊ねれば、「最近うちの店の取材しにきたライター」だと言う。後ろめたいことなんてなにもないから、宝はさらりと答える。まるで、じっとりした目でそんなことを訊ねる俺のほうが変なやつみたいに思えてくる。

 

――こんな時間に電話してくるなんて、親しくしてるんだね。

 

言った瞬間に、自分でも「あーイタイ」と思った。週に一度の定休日以外は朝から晩まで働いて、休日はほとんど寝ているか料理をしている宝に浮気なんてする暇はない。最近つめたくなったとか、逆に優しくなったとかいうこともない。
完全にシロなのだ。それなのにこんな言い方をされたら、腹が立つし呆れるしうんざりするだろう。
実際それは、俺の身勝手な八つ当たり以外のなにものでもなかった。ここ一週間ほど仕事でひどく疲れていたのだ。わがままなクライアントととの噛み合わないやり取りと、無駄に繰り返される打ち合わせ。これくらいならできるだろうと後輩に仕事を振ればミスになって返ってくるし、なぜか他部署の上司にしつこく見合いを勧められるし。
休日出勤になってしまった土曜日の夜、家に帰ってきたら宝が誰かと電話で話をしていた。うすっぺらい機械から聞こえてくる高い声。一度はぐっと堪えたつもりでいたけれど、食事中の二度目のコールには耐えられなかった。

 

――ケータイ、見せてよ。

 

最悪だ。宝はでも、怒らなかった。嫌な顔もしなかったし、それどころかあっさりと「いーよ」と言って携帯電話を俺の手にのせた。あんまり簡単に渡されたものだから、自分が世界一嫉妬深くて世界一間抜けな男に思えた。

 

――見ないの?

 

じわじわと湧いてくる惨めな気持ちに下唇を噛みながら、手の中のそれをじっと見つめていたら、顔の前にぬっとスプーンが突きだされた。瞳だけ上げると頬杖をついた宝が俺を見ていた。

 

――食べな。

 

スプーンの上には、とろとろに煮込まれたにんじんがのっている。俺は宝に出会うまで、市販のルゥを使わないクリームシチューを食べたことがなかった。

 

――くち、あけて。

 

宝は笑っている。聞き分けのない子供を見るような目は、でも心配しているというよりからかっているという感じだ。
抗えず(そもそも、この男に抗うという概念が俺に存在するだろうか)、しぶしぶと口を開けた。口の中に、白いクリームを纏った甘いにんじんが滑りこんでくる。宝はなんでもとろとろにしてしまう。にんじんも、蕪も、かたまり肉も、俺も。

 

――いい子だ。

 

よく噛んで飲みこんだら、宝が言った。スプーンはいったん引っこんだけれど、今度は長い指が口元に伸びてきた。爪の短い骨ばった指が、バターをたっぷり塗った――むしろのせたと言ったほうが正しい量だ――バケットを掴んでいる。
口を開けて、指先ごと含んだ。もちろんすぐに離したけれど、宝は満足そうにくすくす笑った。ひんやりしたバターのかたまりは、俺の舌の上でたちまち溶けてなくなってしまう。バケットもまた、よく噛んで飲みこむ。
食事は始終、そんなふうに進んだ。肉も野菜もパンもワインも、普段の1.5倍くらい食べたと思う。食べるたび、宝が笑ってくれるし、「いい子だ」と言ってくれるから。
腹がいっぱいになったら、黒いやきもちも惨めな気持ちも少しましになっていた。
俺の口に食べ物を運んでいた宝の指は、そうするのが当たり前みたいに俺のシャツのボタンを外した。パンくずや唾液がついたそのままの手だ。でも全然汚いとは思わなかった。大きな手が膨らんだ胃のあたりを撫でる。そこにきちんと食べ物が収まったことを確認するみたいに。
ごめん、と俺は言った。やきもち焼いて、小さいこと気にして、ごめん、と。

 

――気にしろよ。

 

歯が肩のあたりに食いこんできた。
俺の鎖骨やのどぼとけを甘噛みしながら、宝は言った。顔は見えなかったけれど、声はやっぱり笑っていた。

 

――いい子だから、二十四時間俺のことだけ気にしてろよ。

 

寝室に移動することはなかった。宝の手で、俺はとろとろになった。野菜や肉と同じように(唯一違うのは、再生するということ。溶けてなくなったりはしないということ)。

 

「宝が悪い」

 

雨の音を掻き消すようにはっきりと口にした。口にだすことで正しさが証明されたらいい、と思っているのだ。そんなことを思っている時点で、ちっとも正しくなんかないことはわかっている。
十本ぶんの爪かすを新聞紙に包み、ごみ箱に向かって投げる。命中したのを見届けてから立ち上がると、脚やら腰やらあちこちが鈍く痛んだ。これに関してはほんとうに宝が悪い、と思い、思った途端、「真実は口からでないものなんだな」と感じた。
雨のせいで時間の感覚が狂わされる日曜の午後。二時半をまわったところでやっと空腹を覚えて、のろのろとキッチンへと向かった。
ゆうべのシチューを温めようと思っていたのだけれど、コンロに鍋はなかった。そのかわり、お世辞にも綺麗とは言えない字のメモが残されていた。

『昼飯は冷蔵庫。チーズに焼き色がつくまで。だいたい6分くらい? ちゃんとオーブンモードにしろよー』

首を傾げながら冷蔵庫を開けると、真ん中の段に耐熱皿がどんと鎮座していた。それは、宝がラザニアやドリアやグラタンを作るときに使う大きなものだ。俺は宝に出会うまで、世の中に耐熱皿を持っている独身男が存在するとは思っていなかった。
ゆうべのシチューは、グラタンに変身を遂げたらしい。皿を取りだして電子レンジに入れる。メモの通り、オーブンモードにすることを忘れずに。

 

「大皿の料理は嫌なんだってば」

 

最近の電子レンジは回らない。膝を抱えて床に座り、スポットライトに照らされているみたいなグラタンをじとっと見つめた。いちおう六分に設定したけれど、焼けすぎてしまうことがあったら困る。俺の男が作った大事なものだから。

 

「食べすぎて太るじゃん」

 

回らないグラタンは、でもいつの間にかしっかり熱を持っている。耳を澄ますと、チーズの油がぷちぷちと音を立てて爆ぜているのがわかる。俺は宝に出会うまで、食べ物と生き物がとてもよく似ているのだということを知らなかった。

 

「太ったら、宝が悪い」

 

俺が嫌なやつでも、いい子だって言うから。
俺が歳を取っても、可愛いって言うから。
俺が馬鹿になっても、かまわないって言うから。

 

きみが悪い。全部きみが悪い。

 

 

 

 

 


*fin*

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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