*晴生5*暗号

 

 

 

例年に比べると三日ほど早かった梅雨入りが運んできた大雨が、嘘みたいにぴたっと止んだ金曜日。
朝からハッピーなことが三つもあった。
その一、月曜日から始まった、人生初の定期考査が終わりを迎える日だったこと。
その二、お母さんに没収されていた携帯電話が手元に戻ってきたこと。「今日のテストが終わるまで電源入れちゃだめだからね」というお達し付きではあったけれど、まさか朝に返してもらえるなんて思っていなかったから嬉しさもひとしおだ。
その三、電源を入れたら、ヒナからメールが届いていたこと。これは、予想していたことではあったけど嬉しかった。

 

『件名:Re:
 本文:テストどうだった?俺が電話しなかった一週間、寝坊しなかったか?今日でテスト終わるって言ってたから、携帯返してもらったかなって思ってメールした。連絡待ってる』

 

文章の最後に、花丸マークがついていた。
返ってくるテストにも花丸がついていたらいいんだけど……なんて思いながら、一秒でも早くショートホームルームが終わりますように!って思っていた。
窓際の席から見える空は広くて青くてすっきり晴れていて、「この空を見てヒナも俺を思い出してるかも」なんて思っちゃうくらいだ。
皆がそわそわしていることに、先生も気付いているみたい。初めての定期考査はどうだった?という問い掛けに、誰も答えるようすはない。だって返却されるまでどうだったかはわからないもんね。
先生は結局、仕方ないなあっていう感じのちょっと情けない笑顔を浮かべて、

 

「それじゃあ、これでショートホームルームは終わります」

 

って言った。
一斉に椅子を引く、がたがたがたっ、ぎぎぎぎっ、て音をこれほど清々しいと感じたのは初めてだ。

 

 

 

 

 


ヒナに会うのは実に二週間ぶりだった。
なぜなら、ブルーマーブルの練習生はテストの一週間前になるとレッスンを休まなければならない決まりがあるからだ。
もちろん仕事が入っているような売れっ子は別だけど、そうでなければまずは”学業第一”というのが、”保護者の方々から未成年をお預かりする”会社の方針らしい。
それは、わからなくはない。学校のあとにレッスンを受けて、家に帰ってごはんを食べて、それからさあお勉強しましょう、なんて思えるわけがないもの。
そういうところをきちんとしている会社だから、親が安心して子供を預けられるのだとヒナも言っていた。そうだよねって俺も思うけど。
でも、正直とってもつまらなかった。
机に向かって、この先使うかどうかわからない英単語を書き殴りながら何度もため息をついた。
耳の奥にシューズの音が響いてくるんだ。先生がテンポを取る手拍子や、「ハイ十分休憩!」って言われたときに皆がいっぺんに息を吐くあの空気。
春にブルーマーブルの練習生になって、たった数ヶ月しか経っていないけれど、スタジオに行けないのは予想していたよりずっとつまらなかったし寂しかった。
スタジオで会えないぶん、ヒナとの電話は毎晩長くなった。
だけどお互い、やっぱり話すことはそんなになくて、十分か二十分に一回は沈黙が訪れる。
でも初めの頃と違うのは、それがちっとも気まずくなくなったってことだ。

 

――ハル――

 

沈黙のたびにヒナが俺を呼ぶ。

 

――なに?――

 

と、俺は答える。もちろん、呼ぶことに意味がないというのはわかっている。まだ、もうちょっと、話していようね、っていう暗号みたいなものだ。

 

――ハルちゃん。ハルぽん。ハルちん――

 

ヒナがでたらめにあだ名を作って呼ぶので、俺はおかしくなって「なんだよう」って言いながら笑い出してしまう。笑うと、ヒナはますます「ハルりん」とか「ハルキさん」とか「ハルぴょん」とか続ける。俺はいっそう笑う。隣の部屋にいた姉ちゃんが、「ハル病気にでもなったんじゃない?」って言うくらい。
という、われながらばかだなと思うやりとりを毎日毎日続けていたら、案の定お母さんに大目玉を食らった。それで、携帯電話を没収される羽目になってしまったってわけ。
金曜日の夜だったから、ちょうど一週間前になる。
だから、ヒナの声を聞くのは一週間ぶり。顔を見るのは二週間ぶりだ。

 

 

 

レッスンスタジオの近くのマックは少し混んでいるみたいだった。いつもより多く店のわきに停められた自転車の中に自分のものをどうにか滑り込ませるスペースを探して停め、自動ドアが開ききるのも待ちきれずに中に入った。
制服を着た子たちがテーブルにノートや教科書を広げている姿を横目に見ながら、心の中で「ファイト」って呟いてみたりする。
テストは凄く嫌だったけれど、この解放感は今までに味わったことのないものだ。
ヒナの学校は、俺の学校より一日早くテストが終わる予定だった。「いいなあいいなあ」って何度も言ったら、「一日に受ける科目数が多くなるだけだ」と渋い顔で言われた。
今日、ヒナはきっと朝から俺からの連絡を待っていたと思う。
だって『終わりー!ケータイも戻ってきた!』ってメールをしたら、

 

『じゃ、マックで待ってる』

 

って数秒で返事が返ってきたんだよ。ヒナってば暇人。そう思いながら、嬉しさにほっぺたが緩む。
どこのマック?って聞かなくてもわかるって、なんだか格好いいよね、俺たち。親友という言葉がぴったりきそうなその感じに満足して嬉しくなった。
ヒナはぶっきらぼうに「あ、ハル」とか、「おう。テストどうだったよ」とか言うんだろうな。
ヒナのおかげで数学は結構できたと思う。英語も、思っていたほど空欄ばかりにはならなかった。「できたよ」って言ったら、ヒナは喜んでくれるだろうか。
狭い階段を上って二階席に行き、きょろきょろと見渡していたら、

 

「ハル!」

 

っていう声が右側から聞こえてきた。
ヒナの声――にしては、はつらつと爽やかだ。
振り向くと、奥の四人掛けのテーブルに座った三崎くんが腕を高く上げてひらひらと振っていた。
白いシャツにえんじのネクタイ。ヒナと同じ制服だけど、三崎くんは紺色のニットのベストを着ている。

 

「……あ、」

 

ぽかん、と口を開けて突っ立っていたら、三崎くんが不思議そうに首を傾げた。そこでやっと、三崎くんと向かい合って座っていたヒナが振り向いた。ストローを加えたまま、なにも言わずにひょいっと片手を上げる。

 

「どうしたの?ハル」

 

「あ、ううん。なんでもない」

 

のろのろと近づいて、ヒナの隣の席に掛けた。トレイの上には二人の飲みもののカップが置いてある。
肩にかけていたかばんを下ろすふりをして心臓に手を当てると、どくどくとうるさく動いていた。どうしてかはわからないけれど、俺はひどく驚いていたんだ。
三崎くんがいるとは思わなかった。ううん、もちろん、嫌ってわけじゃないよ。ただヒナは一言もそんなこと言わなかったし、ここのマックには、いつだって二人で――……

 

「ハル久しぶりだね。どうだった?テスト。手応えあった?」

 

俯く俺を覗き込み、三崎くんが柔らかに微笑んだ。茶色くて真ん丸の瞳がグミみたいにくにゃっと潰れる。三崎くんの笑顔はすごく整っている。近くのテーブルの女の子たちが、ちらちらと顔を上げて三崎くんを見ていた。

 

「ん……。どうかなあ。初めてだから容量つかめなくて……副教科はいまいちかも」

 

「そっか。慣れないうちは大変だよね。――でも、ヒナのおうちに泊まり込みで行って勉強したんでしょ?それだけがんばったならきっと、思っているよりできてるよ」

 

「えっ」

 

思わず短く叫んで顔を上げた。三崎くんはふたたび不思議そうに瞳を大きくし、「どうしたの?」と言う。隣に座っているヒナがどんな顔をしているのか見たかったけど自然に見られる自信がなくて、テーブルの上に投げ出された白くて細い腕に視線を落とした。
べつに、おかしいことじゃない。三崎くんとヒナは同じ学校だし、一年以上前から友達なんだから色々話もするだろう。「この前ハルが泊りに来たんだ」ってヒナが言ったって不思議じゃないよね。
そう思うのに、なぜか心臓が変な具合にうるさい。それに、隣にいるヒナがずっと黙っているのも気になった。
さらに深く俯くと、ヒナの腿が見えた。向かい合って座るとき、テーブルの下の脚を俺が挟んだりつついたりするのが、いつの間にかお決まりみたいになっていた。いまは、つま先までは見えない。もしかしたら、三崎くんともそういうことをするのかな。
なんでヒナは喋らないんだろう。「よう、ハル」とか「ハル久しぶり」って、言ってくれると思ってたのに。
二週間ぶりなのに。

 

「……俺、なんか買ってくるね」

 

自分でもぎこちないとわかる笑顔だったけど三崎くんはなにも言わなかった。かわりに、「じゃあぼくも一緒に行くよ。ちょっとお腹も減ったし」と、かばんごと持って立ち上がる。どうしたのって聞かれても俺が答えられないことを三崎くんはわかっているんだ。

 

「あ、スー兄。俺のポテトも買ってきて」

 

それが、久々に聞いたヒナの第一声だった。かばんから財布を取り出す手がびくんと一瞬震えたことに、二人とも気付いていないといいな。

 

「えー?弟分のくせにぼくにお使い頼むのかよ」

 

「いいじゃん。可愛い弟分におごってよ、敏お兄さまー」

 

ひゃひゃ、とヒナが笑う。三崎くんもそれに応えるように声を出して笑った。「都合のいいときばっかりそんなふうに言って」って、三崎くんの指がヒナの髪をくしゃっと軽く乱すように撫でた。
同じ制服を着たヒナと三崎くん。後輩と先輩であり、”同期”の二人。
”親友”なんて、”同期”以下か……。

 

 

 

一階に下りるとレジにはずらりと人が並んでいた。
予想外の混雑は、突然降りだした雨のせいらしい。折り畳み傘を煩わしげに畳んでいる人や、「もー急に降ってくるんだもん」「濡れちゃったね」と言いながらハンカチで髪や肩を拭う女の子がどんどん自動ドアから入ってくる。

「ご注文の前にお席の確保をお願い致しまーす」と叫ぶ店員さんの声を聞きながら、

 

「やっぱり梅雨だねえ。また降ってきちゃったんだ」

 

と三崎くんが言った。店内はにわかに湿気を帯びていて、雨のにおいがつよく立ち込めている。

 

「うん」

 

俺の気持ちとおんなじだ……なんて思った。なにをそんなに落ち込んでいるのか自分でもわからないけれど、突然雨を降らせる梅雨空みたいに心がどんより暗く重い。

 

「ぼく、来ないほうがよかっただろ?」

 

俯きがちにレジの列に並んでいたら、隣に立っていた三崎くんがそう言ったので驚いた。
驚いたけど、そう思うのは当然だった。俺は明らかにしょげていたし、その理由も三崎くんにはお見通しだろう。わかっていないのは、ばかヒナくらいのものだ。

 

「ご、ごめんなさい。そうじゃなくて、三崎くんが来ないほうがよかったんじゃなくて、その……」

 

「いいよいいよ。ぼくだって、ハルの立場ならしょんぼりしちゃうもの」

 

うふふ、と穏やかに笑う。男の俺でもどきっとしてしまうくらい、三崎くんは綺麗だ。頬はふっくらまるくて、でも鼻筋は驚くほどシャープで、染めているみたいなうす茶色の髪がさらさらと揺れる。
姉ちゃんが読んでいる少女漫画のヒーローみたいな、ちょっと有り得ないだろってくらい大きな瞳に映る自分が恥ずかしくて目を逸らした。

 

「今日さ、授業が終わった頃に陽太から電話がかかってきたんだ。メールをすることはたまにあるけど、電話なんかほとんどないから驚いて、”どうしたの?”って言ったら、あいつぼそぼそした声で今日一緒にマックに行こうって言い出してさ。聞けば、ハルも来るって言うじゃない。だから二人のほうがいいんじゃないのって言ったんだけど、スー兄も行こうって食い下がってくるの」

 

「……」

 

なんで? って心の中の俺が言う。なんで?ヒナ。わざわざ電話かけて誘わなきゃいけなかったの? なんでだよ。
そう思うと同時に、そんな自分がすごく嫌だった。
俺の動揺に気付いているはずの三崎くんは、でも「どうしたの」とか「大丈夫?」とは言わずに、笑いながら続けた。

 

「ぼくジャンクフードってほとんど食べないからマックなんてめったに来ないんだよね。陽太も知ってるはずなのにそんなふうに言うもんだから、なにか理由があるはずだと思ってつついたんだ。そうしたらさ、陽太のやつなんて言ったと思う?」

 

顔を上げたら、笑っていた三崎くんが途端に両方の眉を下げた。少し慌てながら俺のほっぺを緩く摘まみ、

 

「ごめんね。そんな顔しないでハル」

 

と言って控えめに引っ張る。瞳に映る三崎くんがゆらゆらしているのは、俺の目が潤んでいるからだろう。

 

「――陽太ね、”ハルと会うの二週間ぶりなんだ”って言うんだ。それじゃあなおさら二人のほうがいいでしょって言ったら、物凄く小さい声で、”恥ずかしい”って言うの」

 

三崎くんはそこで、いつもとは違うちょっといたずらっぽい笑い方をした。半月のかたちになった瞳が、不思議の国のアリスのチェシャ猫みたいだ。

 

「久しぶりすぎてどきどきする。恥ずかしいから、ふつうに話ができるようになるまでスー兄にいてほしい、って。なんだそれ!って笑っちゃったけど、陽太があんまり真剣だから仕方なくついてきたんだ」

 

そこで、レジの番が回ってきた。三崎くんが俺のぶんのコーラも一緒に買ってくれて、ポテトはLサイズを一つだけ頼んだ。会計を済ませて俺にトレイを預けると、「二人で食べな」と言って笑った。

 

「ぼくはレッスンがあるから行くよ。二人は今日までテスト休みだろ?ゆっくり話しな。陽太は妙にどんかんなところがあるから、ハルが落ち込んでることにも気付いてないんじゃないかな。それよりも、久しぶりのハルにずっとどきどきしてるんだと思うよ。さっきから目が泳いでたもん。向かいの席で見てて何度も吹き出しそうになっちゃったよ」

 

チェシャ猫の笑みを浮かべながら、三崎くんは「じゃあまたね」と言った。
言葉がなにも出てこなくて、ポテトとコーラを買ってもらったお礼を言いそびれたと気付いた頃にはもう店の外に半歩出ているところだった。
エメラルドグリーンの折り畳み傘を広げた三崎くんは、まるで俺が突っ立っていることを知っているかのように自然に振り返った。
そうしてにっこり笑った顔があんまり綺麗だったので、結局ばかみたいにぽかんと口を開けていた。

 

 

 

がしゃ、と乱暴にトレイをテーブルに置くと、ヒナは細い肩をびくっと上げた。
向かいに座る俺を見て、「あれっ」と言う。

 

「三崎くんならレッスンに行った」

 

スー兄は? というせりふを聞きたくなくて、早口でそう言ったら、自分でもびっくりするくらい不機嫌な声が出た。
なにが起きたのかわからないヒナはつり目を珍しく丸くしてぱちぱちと瞬きをしている。
正面から見たヒナの顔。二週間くらいでは変わらないはずなのに、記憶の中にいるヒナよりも顎がほっそりしたみたいに見えた。

 

「あ……そ、そうなんだ……」

 

「がっかりしただろ。三崎くんが行っちゃって」

 

俺の声は不機嫌モードのままだ。がぶっとストローに噛みついてコーラを吸い上げながら、さっきまで三崎くんが座っていたソファ席にだらしなくもたれた。

 

「え? いや、べつにがっかりってことはないけど。そのままレッスン行くなんて一言も言わなかったからさ。まあ、スー兄には学校でも会えるし……」

 

「そうだよな。いつでも会えるし、メールも電話もできるもんな。いつも、スー兄スー兄ってひっつきまわってるもんな、ヒナは」

 

「……」

 

とげとげのハリネズミみたいになった俺に、ヒナは一瞬呆気に取られたように黙った。けれどすぐにむっと瞳を細くして、「なんだよそれ」と言う。

 

「ひっつきまわってなんかねえよ。それに、スー兄はたしかに年上だし兄貴分だけど、それよりも仲間って感じなんだよ。同期だから色々相談も――」

 

「どうせ俺は同期じゃないよ」

 

ポテトをつかんで口に放り込む。落ち込んでいた反動か、むかむかしだしたら止まらなくなってきた。
俺に話をぶった切られたヒナはまたしても目を瞬かせ、「なんだよそれ」と、さっきと同じせりふをさっきよりも情けない感じで言った。

 

「テスト、できたのに」

 

ごくん、とポテトを飲み下す。喉の奥からなにかがせり上がってきて、胸が詰まっていた。飲み込むと、だから少し痛かった。

 

「ヒナに教えてもらった公式がどんぴしゃで出て嬉しかったし、英語の書き出し問題も思ったよりできた。携帯取られちゃったけど、一週間どうにか寝坊しなかった。でも、お母さんは何度も起こしに来なきゃいけないから、”陽太くんのモーニングコールの偉大さがわかったわ”って呆れてた。二週間も踊ってなかったら身体がなまって、きっと次のレッスンではヒナにまた身体が硬くなってるって叱られるだろうなって思ってた」

 

一気に話して、苦しい胸にコーラとポテトをいっぺんに入れた。ヒナが驚きながら、

 

「おい。喉に詰まるぞ。なに怒ってんだよハル」

 

って言う。まぬけなヒナ。どうしてわかんないの。

 

「話したいことがいっぱいあったのに」

 

「ハル」

 

「二人だと思ってたのに」

 

「ハル、ちょっと……」

 

「同期のほうが大事なんだろ」

 

「おいおい。話が変なほうに……」

 

「ヒナのばか。まぬけ。へたれ」

 

俯いて黙っていたら、ヒナもなにも言わなかった。すっかり呆れたのだろう。
もっとちびだった頃、お母さんの膝の上に姉ちゃんが座っているとこんな気持ちだった。そこは俺の場所なのにって思っていた。泣き出せば、お母さんが困った顔をしながら「ハルもおいで」って言ってくれるのはわかっていた。
友達に対してこんなふうに感じるのは変だよな。三崎くんにやきもち焼くのもおかしいし、ヒナが緊張するタイプなのは知っていたんだから、さっきまでの態度だって怒るほどのことじゃない。
面倒なやつだって思われただろうな。
嫌になっているかもしれないな。

 

「あのさ、ハル」

 

色んなところから話し声や笑い声が聞こえる。決して静かとは言えない店内で、でもヒナの声だけが不思議とまっすぐ身体に響く。
またしても滲みそうになっている視界に、スッと入ってきたのはヒナの手とスポーツ用品店のロゴが入った小さな紙袋だった。

 

「開けてみてよ。俺が選んだんだから間違いないとは思うけど」

 

照れ屋のヒナの、突っぱねるような言い方。小さな包みのシールをはがすと中からパイル地のリストバンドが出てきた。ヒナの好きなアディダスのもので、白地に青でロゴが入っている。

 

「……なに?くれるの?」

 

「……気に入らないなら返せよ」

 

ひゅっと伸びてきた手から逃れるように身体をねじり、「や、やだ」と言ったらヒナが笑った。目の端や頬にたくさん皺ができるその笑顔がなんだか懐かしくて、胸がやっぱり少し痛い。

 

「ごほうび。ハル、勉強頑張ってたから。でもなんか、いざ渡すとなると緊張しちゃって。スー兄についてきてもらったりして、ダサいよな、俺。ごめんな、ハルの気持ちも考えないで」

 

ヒナが謝ることじゃないのに。
ただのやきもちなのに。
俺、ごほうびなんてもらえるほどいい子じゃないのに。
溢れてきそうな涙をこらえるために勢いよく上を向き、ずずっと鼻を鳴らしてすすった。潜めるようなヒナの笑い声が聞こえる。涙ぐんでいるのはどうせばれているんだろう。

 

「ありがと。大事にする。――あ、俺も、今度会うときになんか用意してくるな!今日はなにもないけど……」

 

手首に真新しいそれを通しながら言うと、ヒナが宙を見ながら「ウーン」と呟く。目線を上にあげるのは、考え事をしているときのくせだ。

 

「なんも用意しなくていいからさ、今、五秒だけ目つぶってくんない?」

 

「なん、」

 

「なんで?って聞かないって約束して。あと、目を開けたあともなにも聞かないで」

 

緊張した面持ちは妙に迫力があって、俺はなにがなんだかわからなかったけれどそれに押されるようにして頷いた。なにかいたずらをされるんだろうか、とも思ったけど、ヒナはそういうタイプじゃない。
瞼を閉じたら、周りの音がいっそう遠く感じられた。ヒナが動いているのかじっとしているのかも音ではわからなかった。
五秒って意外と長いな……と思っていたら、
頬に温かいものが触れた。
温かくて、少し湿っていて、柔らかい。

 

……さん・に・いち……

 

ぱち!っと目を開けると、ヒナが物凄い勢いでポテトを食べていた。目の下を真っ赤にしながら、ポテトに恨みでもあるのかってくらいこわい顔でどんどん口に入れていく。

 

「いまの、」

 

「約束だろ。なにも聞かないって」

 

じろっと睨まれて、仕方なく黙った。
ヒナにつられて、なぜか俺の顔も赤く熱くなった。

 

 

 

窓の外は、朝の青空が嘘みたいな大雨。
――これじゃあ外に出られないね――って呟いたら、――出られないな――ってヒナも言った。
その声はでも、ぜんぜん、残念そうには聞こえなかった。
まだ、もうちょっと、こうしていようね、っていう暗号みたいなものだ。
俺たちだけの、暗号。

 

 

 

 

 

*To be……*

 

 

 

 

 

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